伊賀上野

松尾芭蕉生誕の地にて、8月14日は、翁ゆかりのポイントを中心に市内を終日散策いたしました。長い歴史と文化に彩られた街です。

昭和10年の再建ながら凛々しくそびえる伊賀上野城は、天守閣もさることながら、石垣が日本一、二を争うほどの高さ(高さ約30メートルの高石垣)であり、高所恐怖症の方は覗けないほど見事です。小職の出身、愛媛県は城が数多くありますが、現存天守を持つ宇和島城や海水を堀に引き込んだ今治城などを手がけた藤堂高虎が、1608年、徳川家康の命により宇和島からここ伊賀上野に国替えして赴任、改易された筒井定次が築城した城を拡張、再建したとされています。

イベントの準備でしょうか、竹灯りや竹の飾りつけが大勢の職人さんの手でなされていました。天守をあとに、松尾芭蕉生誕300年を記念して上野公園の敷地内に昭和17年(1942)に建立された俳聖殿(国の重要文化財)を見物、鎮座している芭蕉翁像を撮らせて頂きました。

そして同じ公園内にある芭蕉翁記念館を見学いたしました。芭蕉翁真筆資料のほか、連歌・俳諧に関する資料が展示されており、改めて、『俳聖』と呼ばれた松尾芭蕉の弟子の多さと影響力の大きさを学ぶことができました。一説に芭蕉翁は隠密、忍者説がありますが、公園内には忍者屋敷もあり、また、伊賀市役所には“伊賀市は「忍者市」を宣言しました”との大きな看板が掲げられています。

市内も城下町らしく神社仏閣が多く見られます。まず、菅原神社(上野天神宮)に立ち寄りました。ここは、「芭蕉翁が29歳の時、江戸に発つ前に処女句集「貝おほひ」を奉納したとされる神社で、江戸時代前期に建てられた『鐘楼』と中期に建てられた『楼門』」が見事です。菅原神社に詣でてから、まちなかを散策です。市街地は老舗や忍者をモチーフにした店舗が並び、上手な道路整備が進んでいて、楽しく歩いて散策を楽しめます。そして昔の銭湯も健在で、懐かしさを感じさせてくれます。こうした老舗や昔の面影を残す資産をうまくベースにした計画的な街並み保存、市をあげた忍者ブームの演出、伊賀牛を活かした本物グルメ、組み紐など伝統工芸の伝承、若者や外国人を意識したエッジの効いたコンセプトのイベントや店舗づくり、これらがうまく調和して都市にエネルギーを創出しています。

こうした町並みを眺めながら芭蕉翁ゆかりの「蓑虫庵」を見学しました。伊賀市HPと現地ガイドさんの伝では「芭蕉の門人、服部土芳の草庵で、貞享5年(1688)月、土芳が開いた数日後に芭蕉がここを訪れ、庵開きの祝いとして贈った「みのむしのねを聞にこよくさの庵」の句にちなみ「蓑虫庵」と名付けられました。わらじ塚や供養墓の他、江戸深川から生誕地に移された芭蕉の代表句「古池や蛙飛びこむ水の音」をはじめとする句碑や、滋賀県大津市にある義仲寺「芭蕉堂」にならい建立された「芭蕉堂」があります。」と親切丁寧に案内をしてくださいました。堂内には、小職の故郷、愛媛県出身で正岡子規の門人、河東碧梧桐の手による服部土芳の位牌が祀られています。

それから伊賀鉄道の沿線を再び伊賀上野駅方面へ歩き、多くの寺院が並ぶ寺町を抜け、古い町並みが見事で興味深い店舗をひやかしながら、芭蕉翁の生家を訪ねました。これもHPを引用すると「正保元年(1644)に生を受けた松尾芭蕉が29歳まで過ごしたとされる家です。旅に出てからも幾度か帰郷し、貞享4年(1687)の暮れ、生家で自分の臍の緒を見つけ、亡き父母や郷土上野への慕情をこらえきれず涙した「古里や 臍のをに泣としのくれ」の句碑が建っています」と記されています。生家の庭は蝉時雨です。手入れが行き届いた芭蕉葉が植えられていました。

歩きつかれお腹がすきました。残念ながら手元不如意につき伊賀牛は食せず、創業200年の老舗鰻屋「栄玉亭」に飛び込みました。混み合っていたので、玄関をあがった畳の間でしばらく順番を待ちました。それから廊下を抜けて階段をあがり、立派な床の間が設えられた庭が眺められる2階の部屋へ通してもらいました。鰻重は少々値がはりましたので鰻丼を注文、さりげに山椒は京都清水「七味屋」、少しタレが濃い目でしたが大満足です。


三重県は、大阪、京都、名古屋という大都市の中間に位置するため地味にみえますが、実は、伊勢、松阪、津、伊賀はじめ、歴史、文化、自然に恵まれた、誠にもって奥が深い素晴らしい県であることを改めて実感いたしました。