戦後80年平和への誓いを込めて、8月17日、終戦記念日の8月15日から数日過ぎましたが、「ひめゆりの塔」と「沖縄県営平和祈念公園」にて恒久平和の祈りを捧げました。那覇市内でレンタカーを借りて、一路、ひめゆり平和祈念資料館へ向かいました。同資料館は、1989年6月23日、沖縄戦の体験と平和の尊さを伝えるため、ひめゆり同窓会によって設立されました。
財団法人沖縄県女師・一高女ひめゆり同窓会によれば「沖縄戦は、90日余の死闘で、日米双方に20万余の犠牲者を出しましたが、その12万余は沖縄住民でした。米軍は、沖縄戦を、本土攻略の不沈空母として確保する重要作戦と位置づけ、日本軍も、米軍の本土上陸を一日でも長く阻むための持久戦と位置づけました。沖縄守備軍は、この至上命令をうけて、玉砕方針で沖縄戦に臨むこととなり、県民の根こそぎ動員が企てられました。米軍進攻に備える沖縄守備軍は、県下女子中等学校の生徒らに看護訓練を強化し、米軍が上陸すると、ただちに学徒隊を編成して、戦場に駆り立てました。なんの法的根拠もなく、生徒らの戦場動員を強行したのです。1945年3月23日深夜、女師・一高女の寮生全員と自宅通学生の計222人、職員18人が南風原にある沖縄陸軍病院に配置されました。その他、在地の部隊に動員されて、戦線に組み込まれた教師生徒もいました。生徒らは、ただ祖国の勝利を信じて、砲煙弾雨の中、身の危険も顧みず、負傷兵の看護や死体処理、医療器具・薬品・食料や水の運搬など、命ぜられるまま、献身的に協力したのです。5月下旬、日本軍は南部に敗走し、南風原陸軍病院や各地の野戦病院も南部へ撤退しました。そして、すでに壊滅状態となっていた日本軍は、喜屋武半島の戦場の真っただ中で、学徒隊に解散命令を下したのです。年端も行かない生徒らを、米軍の包囲網の中で、投降を許さず、地獄の戦場に放り出したこの解散命令が、学徒隊の犠牲を更に悲惨なものにしました。陸軍病院に動員された240人中136人、その他の地域でも91人、学徒職員併せて227人が尊い生命を失いました。あれから40年余、言語を絶した当時の惨状は、片時たりとも私達の脳裏を離れません。私達は、真実から目を覆われ、人間らしい判断や思考も、生きる権利さえももぎ取られ、死の戦場に駆り立てられた、あの時代の教育の恐ろしさを、決して忘れません。戦争を知らない世代が人口の過半数を超え、戦争体験も風化しつつある今日、しかも、核の脅威にさらされる昨今の国際情勢を思う時、私達は、私達の戦争体験を語り継ぎ、戦争の実相を訴えることで、再び戦争をあらしめないよう、全力を尽くしたいと思います。この思いをひめゆりの心とし、永遠に世界平和を訴え続けることこそが、あたら尊い生命を失った生徒らや職員の鎮魂と信じ、私達は、県内外各位のご厚意とご協力を仰いで、この地に、ひめゆり平和祈念資料館を建設いたしました。1989年6月23日(2021年4月一部修正)」(この史実を若い人たちに一人でも多くの方にも知って頂きたく、ひめゆり陛下祈念館資料のホームページから引用転載させて頂きました)。
また、沖縄県営平和祈念公園は、沖縄本島南部の「沖縄戦終焉の地」糸満市摩文仁の丘陵を南に望み、南東側に険しく美しい海岸線を眺望できる台地にあります。公園内には沖縄戦の写真や遺品などを展示した平和祈念資料館、沖縄戦で亡くなられたすべての人々の氏名を刻んだ「平和の礎」、戦没者の鎮魂と永遠の平和を祈る「平和祈念像」、そして摩文仁の丘の上には国立沖縄戦没者墓苑や府県、団体の慰霊塔が50基建立されています。平和祈念資料館の展示内容は、誠に生々しく凄惨な写真や映像で、当時の尊い無辜の民(むこのたみ)の命が容赦なく奪い去られた記録を現在に伝えています。思わず息をのみ、立ち尽くして涙する展示物が数多くありました。
平和の丘に参拝いたしました。岡山県からは倉敷市立南中学校の生徒さんたちが織り上げた千羽鶴が手向けられていました。
いまは静かな海が、80年前には海上は一面、アメリカ艦隊の軍艦で覆いつくされ、容赦なく艦砲射撃は雨霰と打ち込まれ、陸からは戦車と火炎放射器で追い立てられた皆さんの恐怖の思いを想像だにできません。
海軍生き残りとして潔く生きた父も、はや13回忌となり、決して忘れてはならぬ、先の大戦は遠い記憶となりつつあります。私たちは、この悲惨な戦争の記録を決して忘れてはなりません。
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