元旦は、朝いちばん、みなで年始の挨拶をして、雑煮を頂いてから、徒歩で国立市にある谷保天満宮へ初詣に参りました。
2024年が静かに明けたと思いましたら、能登半島を震源とした令和6年能登沖地震が発生しました。こともあろうに元旦に大地震とは言葉がありません。
相当に規模の大きい地震であり、家屋の倒壊が長い距離に渡って発生しました。
死傷者の数がどこまで増えるか心配です。
ただし、津波が押し寄せ大きな被害をもたらしましたが、東日本大震災の大津波までは、ひどくなかったことが不幸中の幸いといえましょうか。
平成30年7月の西日本豪雨災害は、地震や津波ではありませんでしたが、一番、浸水の度合いが大変だったのが、倉敷市真備の川辺地区、5メートルを超えて濁流がまちを飲み込みました。人は水と共に生きていますが、ひとたび、水がエネルギーを伴って襲ってくると、人はひとたまりもありません。
そして、明けた1月2日、その関連災害といえる航空機事故が発生しました。
羽田空港で千歳から羽田へ着陸した日航機と、石川県の能登半島地震の復旧物資を運ぼうとしていた海上保安庁の飛行機との接触事故で、海上保安庁の5名の方が命を落としました。旅客機の乗客乗員に死者が出なかったことは、本当に救いでありました。
そして、1月3日、長く頂いた冬休みを終えて、東京から岡山へ帰る交通手段として、飛行機を予約していたことで、思わぬ経験をいたしました。
17時台の岡山行きの飛行機を予約していました。16時に羽田空港へ入り、結局、21時に欠航のアナウンスがありました。海外ですと5時間の待ち時間はざらですが、国内で5時間待って、結局、乗れなかった経験は初めてでした。
かつて、福岡出張の際に福岡空港から羽田へ帰るために空港へ向かう途中だったでしょうか、ガルーダ・インドネシア航空の旅客機が滑走路で炎上、飛行場が封鎖された現場に居合わせた経験があります。事故調査が済むまでのかなりの期間でしょうか、飛行場の端に残骸が置かれていた記憶が深く刻まれています。事故当日は、博多へもう一泊して、翌日の新幹線で博多から東京まで戻りました。
この時の経験値を活かして、飛行機をキャンセルして、新幹線で岡山へ向かうべきでありました。1月3日、久しぶりに上野へ立ち寄り、今年初の賀詞交歓は、西郷さんとさせて頂きました。また、寛永寺まで回る余裕はありませんでしたが、上野東照宮へ参拝させて頂きました。そして学生時代に舞台を踏ませて頂いた東京文化会館をのぞきました。ここ上野駅から素直にJRで向かうことが大切でした。
今回の事故で、羽田空港で働く方や航空機会社の関係者の方はもとより、多くの方が相当なご苦労をされていることは想像に難くありません。私たち乗客はお客様ですから、私たちを主語に考え、空路(飛行機)、鉄路(鉄道)、陸路(バス)など公共交通を安心安全に維持管理、運営している方々の立場に立つことを忘れがちです。確かに正月三が日ですから、交通網は、どこも混雑が想定されていたと思いますが、例えば羽田を例にとると、故郷を地方で過ごした方が、東京へ戻る流れは混雑しますが、東京から地方へ行く人の流れは、逆方向ですから、そんなに混んでいないのです。少しでも早く、空のダイヤを元通りにするためには、ここは払い戻しをして、新幹線を利用する行動をとることが、羽田の混雑の緩和につながり、実は利用者の私たちにも便益をもたらす大切な行動なのかも知れません。
元旦から、辛く悲しい出来事が続きましたが、こうした災禍を、臨機応変に乗り越えてゆく力を持つことが大切であることを、身をもって体験した年始でありました。