沖縄滞在で活動する最終日になりました。
8月19日は、朝起床してからホテルの近所を散策いたしました。
松山公園は、雨上がりで濡れていましたが、犬の散歩をする方が大勢いました。公園を通り抜けて、「福州園」の庭を眺めて廻りました。同園のキャッチフレーズのごとく「中国福建省福州市と那覇市の友好の証である福州園は、福州式と呼ばれる美しい庭園です。福州の素材を使い、福州式庭園を忠実に再現しています。いつもの半分の速さで歩き、時には立ち止まり、見上げ、振り返る。その1つ1つに新しいシーンがあり、一つ一つの造形に目を奪われます。あなたを包む、歩けるアートへようこそ。」の通り、工夫された回遊性あふれる見事な池を囲む回廊をゆっくりと散歩しました。特に滝は趣が深く、池の鯉や水連は、本当に心洗われるお庭でした。
次は対馬丸記念館を見学しました。対馬丸は、「1944年8月21日、800人余りの学童を含む約1,800人を乗せ那覇港を出航した学童疎開船であり、翌22日の夜、鹿児島県悪石島付近で米潜水艦ボーフィン号の魚雷攻撃を受け撃沈された。このとき、学童780人を含む1,484人(2018年8月22日までの氏名判明者)が亡くなった。この学童疎開船対馬丸の悲劇を後世に伝えようと、国の慰藉(いしゃ)事業として対馬丸記念館は2004年8月22日に開館した。館内には417人分の遺影が掲示されている。」とされています。
この理不尽、辛酸で悲しい記録を、丁寧な資料と写真で拝観させて頂きました。
特に、戦前の子供への教育教本は興味深かったのと、私の母方の祖父は、高校の英語の教師であり、捕虜収容所の通訳として従軍、フィリピンのミンダナオ沖で輸送船で移動中に、対馬丸同様に潜水艦の魚雷攻撃で戦死している。第2次世界大戦で撃沈された船舶の数は、なんと2,588隻(100トン以上で軍事船を除く)にも及ぶことを知りました。また、その沈没した船舶の船名と沈没地点まで、地図上に克明に記されていました。私の祖父はミンダナオ沖での戦死ですので、その「あたり」をつけることができました。詳しいことを特定はできませんが、戦後、80年を経て、新たな発見をすることができました。
それから浜まで歩き、この海はミンダナオまで続いているのだと、はるか時空を超えて、若き日の写真でしか見たことが無い、亡父の悔しさに思いを馳せました。
浜伝いに歩いて、「波上宮」へ参拝させて頂きました。
波上宮の縁起は、「創始年は不詳であるが、(中略)この波の上の崖端を聖地、拝所として日々の祈りを捧げたのに始まり、(中略)里主はこのことを王府に奏上し、王府は社殿を建てて篤く祀ったと云う。以来、中国・南方・朝鮮・大和などとの交易(琉球王府直轄事業)基地であった那覇港の出船入船は、その都度、波上宮の鎮座する高い崖と神殿を望み、出船は神に航路の平安を祈り、入船は航海無事の感謝を捧げたという。また人々は常に豊漁、豊穣を祈り琉球王府の信仰も深く、王みづから毎年正月には列を整え参拝し、国家の平安と繁栄を祈るなど朝野をあげての崇敬をあつめ、琉球八社(官社)の制が設けられるや当宮をその第一に位(くらい)せしめ、「当国第一の神社」と尊崇された。」と記している。
琉球王国の歴史と日本の神社仏閣との建築様式との融合を含めて拝観させて頂くことができました。参拝している女性の晴れ着が、琉球様式の紅型のカラフルな着物や日本の和服など目を楽しませて頂きました。また、狛犬が琉球特有のシーサーでありました。
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