私たちは中心市街地へ入る手前の小高い丘に立つ陸前高田第一中学校へと向かいました。ここはメインの避難所となっているところです。登り口にあたる地点にプレハブで急造した「公民館風呂」の看板を掲げた仮設であろう銭湯がありました。丘の上までクルマを進めると、中学校の敷地がみえてきました。入り口付近には大阪府が派遣した大型の検診車両、その向かいに自衛隊が設置した自家発電で動く洗濯機を備えた車両が置かれ、自転車置き場に被災を逃れたであろう黒い犬がつながれていました。近づいてみましたが反応は無く悲しそうな眼が印象的でした。校舎へ向かうと端の部屋が診療所となっていました。
窓越しに中を拝見すると医師らしき方をはじめ数名の方がいらっしゃるのが見えました。玄関付近では、年配の男性がドラム缶に火を起こして焚火をしており、「ご苦労様です」と挨拶すると会釈を返してくれました。その傍らでは自衛隊員がテキパキと救援物資を校舎へ運び込んでいました。玄関にはいろいろな貼紙がされていましたが、少し安堵したのは、「食糧品以外の物資は間に合っています」との貼紙が見えたことです。
校庭の奥には仮設住宅が並び、新しい暮らしが再開されていました。ただ、グラウンドにはロープが縦横に張られ、次の仮設住宅の到着を「今や遅し」と待つ状態です。体育館や教室を段ボールや簡易間仕切りで仕切った状態での長期にわたる避難所生活を続けることは、プライバシー面をはじめ精神的にも衛生的にも相当な負担を強いることになると思います。もちろん、仮設住宅とて元の暮らしと比べれば、異常な環境であるに違いありません。防災強化を念頭に置いた新しいまちの復興・再生を如何に進めるか、ようやく国を挙げた検討がスタートしていますが、暮らしの再生には、働く場所(収入)の確保も重要となります。
今回の震災による津波では、世界一とも豪語していた堤防がいとも簡単に決壊してしまいました。そうした点を鑑みますと、さらに高い堤防の建設と言うよりは、津波警報が発令された際に、如何に速やかに安全なエリアまで退避できるかを考慮した、道路網やモビリティの確保を優先した都市計画・交通計画を策定する必要があるのではないかと痛感しました。それは、市街地のビルや住宅に止まらず、港湾を利用する企業においても同じことが言えるのではないかと思います。先の気仙沼市との比較では、気仙沼市役所や駅、そして海辺の教会も、港から直線距離ではさほど離れていないにも関わらず、海抜の高い津波の届かない場所に立地しているため難を逃れました。こうした、再建の必要のある公共施設の計画についても見直しが必要であると感じました。私たちの豊田市も防災マップによれば、近隣の矢作川が氾濫した場合に備え、豊田市役所や警察署など主要公共施設は浸水の危険がある地点に建てられています。都市の防災対策と同時に東北地方整備局でお話をお聞かせ頂いた、「啓開」の教訓を活かした道路整備や、さらには都市間のアクセスビリティの確保を重視したライフライン強化施策が求められるところです。
トヨタ自動車さんが救援物資として用意した「おせんべい」をお渡ししようと、ボランティアの若い女性の方にお話を伺うと、ボランティア活動の基地は私たちが上ってきた斜面の反対側を下った辺りにあると丁寧に教えてくれました。
そちらへ伺うかどうか相談の結果、だんだんと雲行きが怪しくなり、お昼から雷雨になるとの予報を聞いていたため、「雨が降る前に中心地を視察しましょう」ということになり、ボランティア活動の基地をお訪ねすることを断念し、春風にたなびく「がんばれ岩手」の鯉のぼりに復興への祈りを込めながら、陸前高田第一中学校を後にしました。
いよいよ陸前高田市の中心地へクルマを進めました。瓦礫の撤去が進むなか、海岸沿いに広がる(広がっていた)まちは消失し、見渡す限り何もない虚空な空閑地です。倒壊は免れたものの上層部まで津波に洗われ、部屋のなかはめちゃくちゃになった陸前高田市立病院や公共施設など、堅牢な建物のみがいくつか震災前の面影をとどめるのみです。多くの方々が「まるで、爆撃を受けて消失した終戦直後の焼け野が原と同じ光景」以上に上手く表現することができないとおっしゃっていました。
震災前は賑わっていたであろうまちは、いまは跡かたも無く、水が溜まって浅瀬のようになっています。そこに無数のカモメが群れて鳴いています。その鳴き声がこだまとなり陸前高田の空に悲しく響きわたります。いままで泣くまいと堪えていた心の砦が崩れました。涙が一気に流れ出し止まらなくなりました。生まれて五十歳を過ぎた今日まで一度も経験したことの無い、筆舌に尽くしがたい無常なる諦観に心が支配されました。消えたまちに静かに合掌させていただきました。
陶淵明が「帰去来兮辞」4段目の一節で、自然の営みの大きさに比べて人の命のはかなさ無情さを彼の人生観として語った「寓形宇内復幾時 曷不委心任去留」(人間はいつまでも生きていられるわけではない、どうして心を成り行きに任せないのか)のくだりを思い浮かべながら、それでも「人は明日に向かって確かな歩みを続ける」ことを信じ、桜の開花を待つ、みちのくに別れを告げました。