気仙沼から陸前高田へは海岸線を国道45号で行けば一直線に北上できますが、陸前高田市へ入る手前の気仙大橋が落橋して通行止のため、迂回路をとることにしました。しかし一旦、気仙大橋の間際まで被災状況を視察に行き、そこから川沿いを渡る事が可能な橋がある地点まで回り込んで陸前高田市へ入ろうと試みましたが、気仙沼市内が途中早々に通行止めだったため、「無理をしないこと」を決め、国道45号ルートは諦めました。
やむなく事前に調べてあった山越えルートである県道34号線を気仙沼市内から同市上東側を抜け、曲がりくねった道を上って飯森峠を越えて岩手県へ入り、陸前高田市矢作町梅木にて一関から陸前高田に通ずる国道343号線に出たT字路を右折して、陸前高田市へ向かいました。車窓からの風景は、気仙沼エリアでは所々に仮設住宅らしき真新しいプレハブ住宅がありましたが、中山間地に入ると、満開の梅のなかを子供達が田畑で遊ぶ姿が目に映るなど、ひと時ながら、のどかな風景が先程までの壮絶な光景を忘れさせてくれました。
いくつかの山合いの集落を抜け、国道343号の長い緩やかな下り坂を進むと視界が開けはじめました。カーナビを見ながら「そろそろ被災地かな」と一同緊張しながら大きなカーブを曲がった途端、目の前に広がる光景に身体が凍りつきました。ブルブルと震えが走り呼吸が止まりました。「こりゃあ一体なんだ、酷すぎる」。クルマのスピードを緩め、前後左右の安全を確認しながら、一方でパンクしないよう瓦礫と瓦礫の合間を見つけて駐車しました。
そこは見渡す限り、一面が瓦礫の海です。線路は遥か彼方まで視界の限界を超えて土手から下の田畑へ落線していました。長時間押し寄せ続けた大津波により、枕木ごと線路が浮き上がり、土手下へ流されたことが容易に想像できました。また、普通乗用車はもちろん建物や大型のタンクローリも一気に川下へと押し流されたのがわかりました。凄まじい自然の猛威に茫然自失となりました。
瓦礫の中には、引き取り手の無いアルバムや子供部屋に飾られ抱かれていたであろうぬいぐるみが悲しそうに曇天の空を見上げていました。「このアルバムやぬいぐるみの持ち主はいま」との思いが心をよぎった途端、不謹慎ながら「今すぐに、感情につながる思考回路はおろか、身体全体のシナプスを自らが麻痺させなければ心が破砕されるぞ」と、かつて起動した経験のない脳細胞が全身に指令を発しました。
テレビの映像や新聞・雑誌の写真では表すことができない「リアル世界」がそこにありました。同行のお二人の顔からも血の気がひいていました。しばらく無言の時間が続きました。