お四国もうでの途中、5月3日は憲法記念日、鳴門市「ドイツ館」と「賀川豊彦記念館」に足をのばしました。客人たちは、ドイツ館に興味、関心があるため、そちらを中心に見学しましたので、小職は隣接する「賀川豊彦記念館」をメインに拝観、原点回帰のときを、ゆるりと過ごしました。
さて、ドイツ館は鳴門市のHPによれば「大正6年~大正9年(1917年~1920年)のおよそ3年間、第一次世界大戦時に日本軍の捕虜となったドイツ兵を収容した「板東俘虜収容所」が存在しました。板東俘虜収容所では、所長である松江豊寿をはじめとした管理スタッフがドイツ兵の人権を尊重し、できるかぎりの自主的な生活を認めていました。そのため、ドイツ兵たちは元々優れていた技術を活かして様々な活動に取り組み、中でも盛んだった音楽活動においては、ベートーヴェンの「交響曲第九番」を、アジアで初めてコンサートとして全楽章演奏しました。」と紹介されています。当時の捕虜の扱いは基本的な人権を尊重したものであり、第2次世界大戦やベトナム戦争、そして現在のロシアのウクライナに対する民間人の扱いなどとは違って、地域の人たちとの様々な交流をきっかけに、歴史や文化、生活習慣や技術・技能の伝承などまで行われていたことが証明されています。
次に「賀川豊彦記念館」についてです。小職の博士号取得のベースとなった拙書『労働金庫』において、賀川豊彦氏を次のくだりで紹介させて頂いています。「なお、日本における生協運動は、日露戦争後の物価高騰により急速に高まりを見せるが、当初は米騒動の影響などによる官製生協の側面もあり、長続きしない中で、第一次世界大戦後のベルサイユ条約にて制定・設置された国際労働機関など世界的な労働者への待遇改善などの動きを受け、大正8年(1919年)、友愛会によって東京では月島購買組合が創設され、さらに友愛会脱組の純労働組合により、生協「共働社」が、大正9年(1920年)に東京で設立された。この傍系の組織として大正10年3月3日(1921年)に東京で設立された有限責任信用組合「労働金庫」が、労働金庫のルーツと言える。ただし、当時の労働者の低賃金や過酷な労働条件、経済基盤の弱さ、労働争議による貸倒れ、関東大震災の影響などにより、5年余りで「労働者階級に対する金融事業は現在の状況では時期尚早」との声明を残して解散している。さて、労働金庫法で定める第2号会員は生協であり、今日の労働金庫との地域における連携が将来の労働金庫の経営を左右する重要な取組み課題となっている点を踏まえ、生協運動の歴史について概観する。日本の大正中期以降の生協運動は、賀川豊彦の指導による市民生協と岡本利吉の指導による労働者生協運動に大別される。賀川豊彦らに指導により、大正9年(1920年)、大阪には共益社が設立され、さらに大正10年(1921年)には神戸消費組合が設立されている。この神戸消費組合や灘購買組合は、第2次世界大戦にいたる苦難の道のりや阪神淡路大震災の影響などを乗り越えて、伝統の灯を絶やさず、「生活協同組合コープこうべ」として現在まで活動を展開している。」まさに、賀川の名著である『死線を越えて』を忘るまじであり、記念館で賀川の足跡を改めて振り返り、彼の人間としてのレベルの高さと行動力に心を打たれました。 そして、賀川が子供の頃に遊んだと伝えられる「阿波一宮 大麻比古神社(おおあさひこじんじゃ)」へ参拝いたしました。本殿は改修中であり正式な参拝はできませんでしたが、樹齢1000年と言われる巨大な楠のご神木があり、その荘厳さに心を奪われました。 また、境内裏の「板東俘虜収容所」のドイツ兵により造られた眼鏡橋やドイツ橋を見学することができました。
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