年度が改まり、4月4日、仕事を終えてから東京へ向かい、夜、神田の駅前で開いていたラーメン屋さんに飛び込み、遅い夕食を済ませてから、日本橋本石町のホテルに入りました。
翌4月5日、この日は少し怪しげな天気でしたが、朝一番に日本銀行旧館前の桜を愛でました。
社会人になって、まず、全国労働金庫協会・労働金庫連合会に就職いたしました。配属された資金部(現在の資金証券部)の預金係となり、月に1回、全国から集まる資金の報告書を日銀に届ける業務で、生まれて初めて日本銀行営業局へお使いに参りました。その後、金融財政事情研究会へ転職いたし、まる20年間、勤務いたしました。
その間、貯蓄広報委員会、考査局、調査統計局、国債局、営業局、金融研究所など、様々な部署との仕事を担当いたしました。
1983年11月に「日米円ドル委員会」が開催され、一気に円高が加速、その後、金融の自由化、円の国際化を経ながらバブル経済となり、そしてバブル崩壊、銀行、証券、保険の経営破綻が相次ぎました。金融界はもとより、大蔵省や日本銀行の職員の処分も相次ぎました。そして不良債権処理の目途が付きかけたかに見えた頃、リーマンショックが世界を襲いました。
この頃まで、金融財政事情研究会の業務や日本ファイナンス学会の業務(初代事務局長)などで、折に触れて日本銀行に通いました。ちなみに、日本ファイナンス学会の業務で東京大学へしばしば参りましたが、その折に、東京大学植田和夫先生(現総裁)の研究室を訪問させて頂いたことを懐かしく思います。また、黒田東彦前総裁は、大蔵省国際金融局国際機構課長の時代に業務でお目にかからせて頂きました。
このように、微力ながら、日本の未来のための一助にならんと信じて昼夜兼行の毎日でした(リーマンショックを経て、疲れ果てまして、転職と相なりました)。
ともあれ、思い出が深い、日本銀行東門です。
何度、この門をくぐったことでしょうか。
日本銀行旧館の庭に咲く、満開の桜を眺めながら、かつての様々な思い出が、次々とよみがえりました。
当時、がむしゃらに頑張っていた頃の自分を思い起こし、そして今の日本の金融事情を鑑みながら、ちょっと悲しい思いになってしまいました。
その後、わが国は、ゼロ金利政策が続き、同時に国債の巨額の引き受けによるアベノミクス・量的質的金融(異次元)緩和政策の副作用に悩まされつづけています。
黒田東彦総裁がようやく退任、植田和夫総裁に日本の金融政策のバトンが渡され、現在は、その手腕が試されています。
この桜のように、見事に咲いて頂きたいと祈念いたしながら、日銀を後にしました。
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