名橋「日本橋」と「日本国道路原標」の思い出

トヨタの研究所に勤務しており、その襲名披露企画をお手伝いいたしました。
そのお手伝いとは、前の東京五輪で急いで工事をした首都高速道路は重要文化財「日本橋」の上に作られており、日本の道路のゼロ地点である日本橋は首都高のために日があたりませんし、空を見上げることが出来ません(首都高速の裏側しか見えない)。
その首都高を壊して日本橋川の下へ移設(地下へ)して、もって日本橋に光をあて、周辺の再開発でもって水辺の親水空間を作ろうというのが政策課題でした(大阪の道頓堀川は一応成功していると思います)。この工事を成功させる後押しをするために、歌舞伎で東西をつなぐイベントが提案され、その企画と運営のお手伝いを、当時、所属していた現代文化研究所(トヨタ自動車シンクタンク)でお受けすることが決まり、担当をいたしました。
その背景には、国土交通大臣が扇千景さんであり、その旦那様が当時の中村雁治郎さんであったため、旦那様が、一肌脱いだとの印象を持ちました。

企画の要諦は次の通りです。中村雁治郎さんが、2005年11月、上方歌舞伎(西)の最高位の名跡で、それまで空席だった「坂田藤十郎」を四代目として襲名することとなりました。ちなみに江戸歌舞伎(東)の最高位は「市川團十郎」だそうです。
さて、その坂田藤十郎さんの襲名披露のイベントとして、2006年4月2日、重要文化財日本橋の上に架かる、首都高速の地下埋設に向けたセレモニーが実施され、日本橋の再生を核にした、まちづくりに活用しようとの企画が進行しました。それが国土交通省業務で担当した坂田藤十郎襲名披露企画「道でつなぐ東西交流江戸おねり」です。シナリオは、上方歌舞伎の襲名披露を、まずは京都の南座で行い、藤十郎が東海道五十三次を江戸へ下るとのストーリーです。途中、名古屋の御園座での公演などを経て東京歌舞伎座での公演となるのですが、歌舞伎座の公演に先立ち、藤十郎は「船乗り込み(ふなのりこみ))」として、東京湾から日本橋川を船で江戸へ入るという趣向で、船で日本橋に登場します。
そして、日本橋傍の日本銀行旧館で陸にあがり、この日本銀行旧館の庭で襲名披露をいたす運びです。これまで、日本銀行は、この庭先を誰にも使わせたことが無いというタブーを破りました。というか、誰もイベントで使おうとの発想がなかったので、使われなかったのかも知れません。
それから銀座通りを練り歩く襲名披露最大の見せ場「江戸おねり」をして頂き、日本橋の上でイベントは最高潮となりました。
そのあと、歌舞伎座まで「おねり」(歩いていただく)のは、遠すぎるということで、トヨタのオープンカーを準備、乗車いただき、銀座4丁目の交差点を左折して歌舞伎座までお連れしました。この企画の国の「案内チラシ」と「公式広報冊子」の企画・編集をNOUSさんにお願いした次第です(小職のこのブログをお願いしています)。

インバウンドを意識していましたので外国人にも興味を持っていただけるよう日英版となっています。
この仕事は国をはじめ関係方面から秀逸であると高い評価を頂きました。
合意形成に苦労しましたが懐かしい思い出です。
ようやく今回のオリンピックを契機に「首都高速道路」が改良され、日本橋付近は地下へ埋設される工事がスタートしました。
さて、その立役者をお願いした、「坂田藤十郎」(人間国宝)さんは、2020年11月12日、逝去されました。そして、扇千景さん(元国土交通大臣)も、2023年3月9日、89歳でお亡くなりになりました。
こうした地道な活動の甲斐あって、2040年に付け替え工事が完成すれば、悲願であった日本橋の上空を覆う構造物がなくなり、日本橋界隈の景観が新しくなります。いまも日本橋中央に埋まる日本国道路元標を刻む文字は佐藤栄作氏の手によるものです。工事の無事完成を祈念しつつ、扇元大臣の志と思い出の坂田藤十郎さんに、桜が満開の日本橋から合掌させて頂きました。

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