一般財団法人地域総合整備財団(ふるさと財団)の地域再生マネージャー事業のアドバイザーとして、8月15日から17日までの予定で鹿児島県沖永良部島を訪問いたしました。
県外出張ですので、財団からの指示で、新型コロナ感染対策としてワクチン接種を2回済ませ、2週間の経過期間を経て、参加当日まで2週間の検温、さらに前日にPCR検査を行い、陰性証明を提出することが義務付けられています。これらの条件をクリアしての参加となりました。
さらに今回の現地調査は、新型コロナ災禍に加えて、集中豪雨が中国・九州地方を襲うというダブルのリスクがあるなかでの参加となりました。
出発前日の8月14日、朝から福岡、山口、広島を集中豪雨が襲い、平成30年7月の西日本豪雨災害を凌ぐ激甚災害の発生可能性が報道され、あちらこちらで河川氾濫の危険があるとの報道が続き、線状降水帯が次々と発生、避難指示、緊急避難の警報が各地で発令されました。
ふるさと財団本体の一行は、羽田から那覇経由で現地入りです。一方、私は岡山駅から博多駅、福岡空港から那覇経由で現地入りという行程です。新幹線が一部区間で運行見合わせのニュースを受け、このまま被害が拡大すると岡山から福岡までたどり着けない可能性が高いとの判断で、一日早く、福岡まで入ることを決めました。
岡山駅で新幹線を待つと、既にダイヤに大きな乱れが発生、ダイヤを変更して、普段は無い岡山始発、鹿児島中央行きの臨時便がホームに入線していました。
これ幸いと乗車、しばし発車を待ちました。
豪雨の中での岡山始発とあって乗客はまばらで、コロナ対応の心配はありませんでした。
一方で懸念していた通り、倉敷市を流れる高梁川はじめ、広島県、山口県を通過しながら車窓から見える河川はどこも明らかに水位が増していることが肉眼で確認できました。
倉敷市真備地区はじめ堤防の決壊など被害が無ければよいと祈念しました。
新山口駅で車内アナウンスが流れ、広島と新岩国間で降水量が危険水域を超えたため、後続の列車は運休とのアナウンスです。また、乗車した列車も「途中で運転を休止する可能性があります」とのアナウンスに不安が募ります。
そうこうしているうちに長いトンネルに入りました。
これは関門トンネルだなと、何とか九州入りできることに少し安堵しました。
こうして博多駅に定刻通り、無事、到着することができました。
雨模様の中で、お昼をすぎていましたので、昼食を食べることにしました。
博多駅構内の食事処も考えましたが、JRは在来線がすべて運休しているため、改札口を中心に構内は足止めをくった人であふれていました。
そこで雨の中でしたが、筑紫口を出てしばらく歩き、鰻屋をみつけましたので入店しました。
福岡県で柳川の鰻蒸籠蒸し(せいろむし)が有名です。
そこで普通のお重や丼メニューもありましたが、ここはご当地名物の蒸籠蒸しを注文いたしました。
鰻のたれが染みた濃い茶色のご飯の上にふかふかの鰻、錦糸卵の彩りが特徴です。
まず、蒸籠蒸しが来るまでの待ち時間、肝やき、うまき、ノンアルビールを注文しました。
本日の鰻は宮崎産とのこと、肝やきは癖や苦みが無く、鰻の肝本来の独特な風味と柔らかさを楽しみました。
うまきは、幅広に包丁を入れた太い一切れで、卵焼きの表面には艶のある溶き葛のような塗りが施されていました。卵焼きと具の鰻はふくよかで、ノンアルビールの炭酸に相性が良くて、味わい深い酒の肴でありました(コロナの影響で酒類の提供は禁止されていました)。
雨がひどく、幸いお客さんはまばらでしたので、無事に到着できた安ど感もあり、久しぶりにゆっくりとした食事を堪能しました。
昼食を済ませて、早々に駅至近のホテルにチェックイン、お風呂を使い雨の濡れを落とし、しばし昼寝をいたしました。
さて、日暮れ時、雨は小康状態でした。
繁華街を避けてホテルの近くを軽く散歩しました。
ここ博多も川の水は増水、土色に濁っていました。
夕食はホテル前の食堂に飛び込みました。
名物の辛子レンコン、ごま鯖、鯛茶漬け、貝汁を注文しました。
玄界灘であがった鯖、鯛ともに身はぷりぷり、活きがよく、両方ともに擂胡麻(すりごま)の味付けで頂きました。粗目に摩り下ろした胡麻だれが刺身に絡み、風味が絶妙にマッチして、魚本来の味をうまく引き立てています。
辛子レンコンは、表面が軽く揚げられていて、程よい辛さがレンコンの歯ごたえと見事なハーモニーを奏でています。
貝汁もよく砂抜きされた国産の浅利に九州の特徴である少し甘めの味噌仕立てです。
鯛茶漬けのあっさりとした出汁茶と交互に味わいますと満点でした。
至福のひと時となりました。
少しせっかちになりましたが、3密のリスクを避けるため手早く夕食を済ませ、真っすぐホテルへ戻り就寝いたしました。
予定外の前泊でしたが、九州の味を堪能することができました。
一方で、せっかく博多まで来て、博多駅前の半径百メートル程しか行動しなかったことは初めての経験でした。