東京感染者増え新型コロナ禍安心出来ませんが、非常事態宣言は解除され、東京など一部の都市を除き、移動の自由が認められ始めました。
6月に入りましたので、休日出勤の代休を活かして、岡山県境越えて行きたいスポットである、島根県安来市足立美術館に4月にオープンした「魯山人館」(新見市神郷から1時間程)を訪ねました。
魯山人は「陶芸家。京都上賀茂に生まれる。本名房次郎。誕生直後から愛情のない養父母のもとを転々とする。はじめ書家,篆刻(てんこく)家として名をなし,食客として長浜,京都,金沢などに逗留,各地で料理の研究もする。1925年東京赤坂山王台に同郷の友中村竹四郎と会員制の高級料亭〈星岡茶寮(ほしがおかさりよう)〉を開設,顧問兼料理長として天下に美食家の名をはせる。27年北鎌倉に星岡窯と住居を建設,荒川豊蔵などを招いてみずから食器の制作に専念する。」と紹介されています。
『別冊太陽』の表紙を飾る代表作2点はじめ数々の見事な作品が展示されていました。
ここ足立美術館は、横山大観の名品はじめ数々の日本画の名作が展示されていますが、同時にその庭は日本を代表する名庭園です。
コロナ禍を忘れ、しばし庭を眺めながら健康を噛みしめながら生きる幸せを感じました。
そして、クルマで10分ほどにある「月山富田城址(がっさんとだじょう)」に足を延ばし、まず安来市歴史美術館隣の道の駅「広瀬・富田城」内にある、うどんそば処「尼子」で、自家製粉でうった割り込蕎麦を食しました。コシの強さと歯ごたえの良さを味わいました。そして腹ごしらえをしてから「月山富田城址」の本丸を目指しました。
「安来市観光ガイド」によれば「月山の一帯にあり、山陰・山陽十一州を手中に収めた尼子氏歴代が本城とし山陰・山陽制覇の拠点とした月山富田城は、その規模と難攻不落の城として、戦国時代屈指の要害でした。また艱難(かんなん)辛苦に耐える悲運の武将・山中鹿介の出た城として有名です。(中略)難攻不落の要塞城と言われており、主家への忠義を貫いた山中鹿介の銅像や供養塔、随所に残る石垣や石畳の古道が往時の面影を伝えています。1934年に国の史跡に指定され、2006年には「日本名城100選(65番)」にも選ばれています。月山富田城は菅谷口、御子守口、塩谷口の3方面からしか攻められず、城内郭の下段が落ちても、中段の山中御殿で防ぎ、そこが落ちても、主山の月山に登って防ぎ、頂上には堀を築き、守りを固め、一度も落城しなかった天下の名城として知られています。(中略)月山富田城が最も華やかであったのは、京極氏の守護代であった尼子氏、中でも尼子経久(つねひさ)の時代です。経久は、下克上の戦国期に守護代の地位から守護京極政経に対抗して戦国大名として独立しました。経久は、この対立から富田城を追われましたが、文明18年(1486)に劇的な富田城奪回に成功したと言う逸話が残されています。その後出雲諸城はもちろん、天文10年(1541)に84歳で没するまでに山陰・山陽まで領し、最も繁栄しました。経久の後を継いだ尼子晴久の代には安芸の毛利元就に侵攻され、永禄9年(1566)尼子義久の篭城戦の末富田城は開城しました。」とあります。
麓からの小路は草花に飾られて、心を和ませてくれます。途中、山中鹿之助の碑に挨拶して古城の石垣に向かい、かつての戦を偲びました。見事な城郭の作りです。
本丸からは、遠くに宍道湖の中海が望めました。爽やかな風が吹き渡ります。木陰に腰を下ろして、そして横になりました。なんとも言えぬ豊かで贅沢な時間が過ぎてゆきました。
汗をかきましたので、再び足立美術館まで取って戻り、隣接する豊かな自然に囲まれた温泉郷「さぎの湯温泉」に入湯させて頂きました。ここは、その昔、白鷺が足の傷を癒したことから、鷺の湯と名付けられたと伝えられています。とてもなめらかな湯質に満足いたしました。そして、城址へ登り、温泉にも浸かりましたので、お腹がすきました。
急ぎ、松江市内へ向かい出雲そばの名店「橘屋」を訪ね、辛味大根がどっさり盛られた手打ちの「おろし蕎麦」を頂きました。少し太めに打たれた、のど越し抜群の絶品です。
宍道湖にクルマを停めて夕暮れの中海に久しぶりの県外を訪れた島根の思い出を封じ込めました。
時間はかかりましたが、帰りは国道180号線から183号線を山越えで、鳥取県を経由して岡山を目指しました。途中で南部町にある緑水園で小休止をしました。日南町を抜けて新見市神郷へと伯備線沿いに岡山へ帰り、すっかり日が暮れましたので新見市役所の近くにあるラーメン「いぶき」で、千屋牛とイノシシジビエという2種類の焼き豚がダブルで盛られた一杯を頂き、高梁川沿いを、高梁市、総社市を抜けて自宅までロングドライブを楽しみました。