5月27日、倉敷市企画財政局で、今年度の岡山大学と倉敷市の連携について話し合いを持ちました。地方創生と流域連携の強化を目指し、地域の皆様方が取り組みを進める「高梁川流域学校」の活動を支援するための企画や環境学習プログラムの内容を軸に1時間ほど意見交換をさせて頂きました。
そのあと、先に開催されたG7倉敷教育大臣会合成功の労をねぎらいにサミット担当部局をお訪ねしご挨拶させて頂きました。
さて、倉敷を後にして高松に向かいました。お約束として、高松駅構内にある讃岐うどん店「連絡船うどん」にて「ぶっかけうどん」(300円)を食しました。毎度ながら、ご当地でしか味わえない麺のコシは最高です。
一旦、ホテルにチェックインして、汗を流してから外出、関係者の方と打ち合わせをいたしました。高松の商店街は、飲食店が多いため夜も大勢の人で賑わっています。この日は、瀬戸内で獲れた「太刀魚」の焼き物を賞味いたしました。とても肉厚で味わい深く堪能させて頂きました。岡山の商店街は、遅くまで営業をしているお店は少なく、店じまいの時刻は一般的に早めです。その違いはどこにあるのか、そんなことを考えながら眠りにつきました。
翌日は、高松駅近くの会場で「組織の理念経営とは何か」をテーマに講演をさせて頂きました。四国4県から受講者の方が集まってくれました。
いまは、高松城址「玉藻公園」や周辺はツツジが見頃です。
高松市のHPによれば「天正15年(1587)に讃岐一国を与えられた生駒親正は、翌天正16年(1588)から数箇年かけて高松城を築城しました。このとき、「野原」の地名を『高松』と改めました。生駒氏の治世は寛永17年(1640)の生駒騒動による転封まで4代54年間に及びました。生駒氏転封後の寛永19年(1642)には、松平頼重に東讃12万石が与えられました。頼重は城内の改修を行い寛文10年(1670)には天守の改築を完成させ、翌年から東ノ丸、北ノ丸を新造し、2代藩主頼常は月見櫓や艮櫓などを建て、大手を南側から南東側に移動し、三ノ丸に御殿を建てました。その後、城は大きく改変されることなく、11代にわたって松平氏の居城としてその姿を見せていましたが、慶応4年(1868)、官軍に開城することになりました。お城といえば「いくさ」と考えがちですが、高松城はいくさを経験していない城です。高松城が築城された天正16年(1588)には、既に豊臣秀吉により九州から東海地方まで平定されていました。また、慶応4年(1868)鳥羽伏見の戦い後に朝敵とされ、土佐藩を中心とする官軍に包囲された時も戦うことなく開城しています。
明治期に外堀は埋め立てられ市街化が進み、城郭の北側も埋立てが行われ海城の雰囲気が薄れました。また、中堀より内側は兵部省(のちの陸軍省)の管轄となり、城郭建物の多くは破却され、明治17年(1884)には老朽化を理由に天守の解体が行われました。明治23年(1890)に再び松平家に払い下げとなり、天守台に玉藻廟、三ノ丸に現在の披雲閣が建築されました。昭和29年(1954)に高松市の所有となり、昭和30年(1955)に国史跡として指定され、同年5月5日から玉藻公園として一般に公開しています。(以下略)」とあります。
四国の玄関口である高松は、いつでも訪れる人をやさしく迎えてくれる、とても素敵な都市です。讃岐うどん、瀬戸内の魚介、名物「骨付鳥」の楽しみはもとより、往復の瀬戸大橋線「快速マリンライナー」の車窓から眺める讃岐平野や瀬戸内の風景も心を和ませてくれます。現在は、瀬戸内国際芸術祭も開催中です。ぜひ、どうぞ訪ねてみてくださいませ。