さて、三日目です。11月4日のスタートは、納経所が開く8時に、宿泊した湯之谷温泉の近くにある前神寺へ参拝させて頂きました。霊場会様のHPにある通り、「江戸時代には、西条藩主松平家の祈願所となり三つ葉葵の寺紋を下賜するなど寺運は隆盛を極めた」ため、家紋が葵の紋になっていることが目をひきました。また、霊峰、石鎚山を祀る石鎚神社との関係も深いことから、歴代の天皇家との関係が深いことを学ぶことができました。
一般社団法人四国八十八ヶ所霊場会のHPを一部引用させて頂くと、同寺は「山岳信仰の山として崇拝される日本七霊山の一つである石鎚山(標高1982m)の麓の霊場で、真言宗石鈇派の総本山であり、修験道の根本道場でもある。開創は、天武天皇(在位673~86)時代に修験道の祖・役行者小角が石鎚山で修行を積んだ後、衆生の苦を救済するために釈迦如来と阿弥陀如来が石鈇山大権現となって現れたのを感得し、尊像を彫って安置し祀ったことに縁起する。その後、桓武天皇(在位781~806)が病気平癒を祈願し成就されたことにより七堂伽藍を建立し、勅願寺「金色院・前神寺」の称号を下賜された。以降、文徳天皇、高倉天皇、後鳥羽天皇、順徳天皇など多くの歴代天皇の信仰が厚かった。後に空海(弘法大師)も2度石鎚山を巡鍚し虚空蔵求聞持法や護摩修行、断食修行などを行ったことが知られている。江戸時代には、西条藩主松平家の祈願所となり三つ葉葵の寺紋を下賜するなど寺運は隆盛を極めた(以下略)」と紹介されています。
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さて、前神寺から遠く離れて、愛媛県最後の札所である三角寺が、四国中央市の山腹にあり、高速道路を使いながら一気に階段下の駐車場までクルマを乗り付けました。きつい石段を登り詰めると、そこには、美しい花々が咲く、広い境内が広がりました。晩秋ながら桜の花が咲いているのに驚きました。また、霊場会様のHPで学んだ三角寺の由来である、「三角の池」を興味深く眺めました。また、立派な本堂や大師堂も見事でありました。
一般社団法人四国八十八ヶ所霊場会のHPを一部引用させて頂くと、同寺は「江戸時代の俳人・小林一茶が寛政7年(1795)に訪れたとき、「これでこそ 登りかひあり 山桜」と詠まれただけあって、山内は樹齢3、400年の桜が爛漫となる名所である。伊予最後の霊場で、標高は約360m、平石山の中腹にある静かな境内。縁起では、聖武天皇(在位724〜49)の勅願によって、行基菩薩が弥勒の浄土を模して具現するために開創したと伝えられる。その後、弘仁6年(815)に弘法大師が訪れ、本尊の十一面観音像を彫造して安置された。さらに、大師は不動明王像も彫られ、三角の護摩壇を築いて21日間、国家の安泰と万民の福祉を祈念して「降伏護摩の秘法」を修法されたという。この護摩壇の跡が庫裡と薬師堂の間にある「三角の池」の中の島として現存し、寺院名の由来ともなっている。」と紹介されています。
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愛媛県最後の三角寺から香川県へ入り、八十八ヶ所の札所のなかで、一番高いところにあり、人気も高い雲辺寺へ参りました。これまでは、香川県側からロープウエーで参拝いたしましたが、この度は、初めて徳島県側からクルマで回り込み、駐車場から高い杉並木の参道を歩きで境内を目指しました。霊場会様の解説によると「四国の各国から馳せ参じる僧侶たちの学問・修行の道場となり、「四国高野」と称されて栄えた。」との教えの通り、高野山のように深山に広い境内があり、五百羅漢が出迎えてくれます。また、丁度、紅葉が見事でありました。また、瀬戸内海が一望できる展望台は、絶景のスポットです。
一般社団法人四国八十八ヶ所霊場会のHPを一部引用させて頂くと、同寺は「四国霊場のうち最も高い標高911メートル、四国山脈の山頂近くにある霊場で、「遍路ころがし」と呼ばれる難所とされた。現在は、麓からロープウエーで山頂駅まで登ることができる。住所は徳島県だが、霊場としては讃岐の打ち始めでいわば「関所寺」。縁起によると、弘法大師は雲辺寺に3度登っている。(中略)霊場は、俗に「四国坊」と呼ばれ、四国の各国から馳せ参じる僧侶たちの学問・修行の道場となり、「四国高野」と称されて栄えた。貞観年間(859〜77)には清和天皇(在位858〜76)の勅願寺にもなっている。鎌倉時代は七堂伽藍も整備されて、境内には12坊と末寺8ヶ寺を有した古刹として阿波、伊予、讃岐の関所でもあったという。」と紹介されています。
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雲辺寺に詣でてから、麓まで急な坂を下りながら、山中の集落を縫うようにクルマを進めました。かなりの距離を走り、ようやく、次の札所である大興寺に着きました。まず、目を見張りましたのが、霊場会様の紹介にある「仏師として名高い運慶の作と伝えられる仁王門にある雄渾な二つの金剛力士立像」の出迎えです。対峙するものを威圧しながらも、信心深いものなら通すとした気持ちにさせてくれました。また、樹齢が1000年はあろうかと思われる天をつくような巨大なクスノキが霊験をますます高めてくれます。
本堂や大師堂、そして池の仏像など、訪れる者の気持ちをとても清めてくれる心持となりました。
一般社団法人四国八十八ヶ所霊場会のHPを一部引用させて頂くと、同寺は「縁起によると、天平十四年(742)熊野三所権現鎮護のために東大寺末寺として現在地よりも約1キロ北西に建立され、延暦11年(792)大師の巡錫を仰ぎ、弘仁13年(823)嵯峨聖帝の勅により再興されたと伝えられている。(中略)香川県の文化財として指定されているのは次の5件である。1つは像高84センチの本尊藥師如來坐像で、平安後期、檜寄木造り、漆箔、伝弘法大師作。鎌倉時代後期建治2年(1276)の銘がある天台大師坐像は檜寄木造り彩色で像高77.4センチ。天台大師の彫像は極めて少ない。弘法大師坐像は近年の調査により天台大師坐像と同じ建治2年の作であることが判明し、文化財として指定された。四国最古の銘のある弘法大師像である。仁王門にある雄渾な二つの金剛力士立像は仏師として名高い運慶の作と伝えられ、像高314センチ。鎌倉初期の作、八十八ヶ所中最大とされる。「大興寺」と記された扁額には文永4年(1267)の年号と「従三位藤原朝臣経朝」の裏書きがある。」と紹介されています。
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さて、四国八十八か所の札所で、2か所が一つになっている、神恵院と観音寺に参拝させて頂きました。ここは瀬戸内に面しており、浜には寛永通宝の砂絵が描かれている観光名所として人気を集めてきました。子供の頃に訪れて、その頃は、人気番組の時代劇に、大川橋蔵主演の銭形平次があり、そこで投げられる銭が寛永通宝でしたので、ここ観音寺の砂に描かれたその大きさに驚いたことを覚えています。札所の境内には美しいお庭があり、また、本堂や大師堂なども、とても趣のある建物が並んでいます。御朱印が、一か所で2つ頂けるとあって、義姉が喜んでおりました。
一般社団法人四国八十八ヶ所霊場会の同院と同寺のHPをそれぞれ一部引用させて頂くと、同院は「六十八番・神恵院も六十九番・観音寺も琴弾公園内の琴弾山の中腹にあり、2つの札所が同じ境内に存在する、とても珍しい霊場です。開基したのは法相宗の高僧・日証上人といわれています。大宝3年(703)この地で修行中、宇佐八幡宮のお告げを受け、かなたの海上で神船と琴を発見。琴弾山に引き上げ、「琴弾八幡宮」を建立して祀りました。このとき、神宮寺として建てられた寺が起源とされています。」と紹介されています。
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一般社団法人四国八十八ヶ所霊場会のHPを一部引用させて頂くと、同寺は「観音寺が第六十八番・神恵院と同一境内にあり、開基も創建の時期や由縁も同じであることは、前項で述べている。ただ、創建されたころの寺号は「神宮寺宝光院」と称した。以来、100年後の縁起からたどる。大同2年(807)、弘法大師は琴弾八幡宮の本地仏である阿弥陀如来像を納めたとき、この寺の第7世住職となって入山したと伝わる。そこで大師は、琴弾山の中腹に奈良の興福寺に倣って中金堂、東金堂、西金堂の様式で七堂伽藍を建立し、その中金堂には本尊とする聖観世音菩薩像を彫造して安置した。さらに、この地に仏塔を建てて瑠璃、珊瑚、瑪瑙などの七宝を埋め、地鎮をしたことから、寺名の神宮寺を「七宝山・観音寺」に改め、霊場に定めたとされている。桓武天皇(在位781〜806)はじめ3代の天皇の勅願所となり、また室町時代には足利尊氏の子・道尊大政大僧正が住職として45年間務めるなど、寺運は隆盛を誇った。」と紹介されています。
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観音寺からしばらくクルマを走らせまして、次の札所、本山寺に到着です。
広い境内に驚きましたが、霊場会様の開設にある通り、境内には見事な五重塔がそびえたち、私たちを迎えてくれました。花も咲いており、国宝と記された本堂へのお参りをはじめとして、次々と回りながら、それぞれに、お参り、ご挨拶をさせていただくことができました。
一般社団法人四国八十八ヶ所霊場会のHPを一部引用させて頂くと、同寺は「四国霊場では竹林寺・志度寺・善通寺とこの本山寺の4ヶ所だけという五重塔が目印。(中略)大同2年(807)平城天皇の勅願により、弘法大師が七十番札所として開基。当時は「長福寺」という名で、本堂は大師が一夜ほどの短期間にて建立したという伝説が残ります。およそ2万平方メートルの広大な境内には国宝の本堂はじめ、仁王門、五重塔、鎮守堂、大師堂、十王堂、赤堂(大日堂)、慰霊堂、鐘楼、客殿などが並び、大寺として栄華を極めた当時を偲ばせます。」と紹介されています。
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金の倉との名称に興味を持ちましたが、これは、この周辺の地名から名付けられたとのこと。まちの中に、見事に溶け込んでいる、まちの拠点といった印象を受けました。また、ここ金倉寺のように、弘法大師様や天皇にまつわる逸話や伝説が数多く語り継がれているのも、四国八十八か所巡りの興味深さであると思います。
一般社団法人四国八十八ヶ所霊場会のHPを一部引用させて頂くと、同寺は「金倉寺は、弘法大師の甥で天台寺門宗の開祖「智証大師」が誕生した地。縁起によると、弘法大師が生まれた宝亀5年に智証大師の祖父・和気道善(わけどうぜん)が建立し、道善は「自在王堂」と名づけ、仁寿元年(851)11月に官寺となった際に開基の名をとって「道善寺」となりました。その後、唐から帰朝した智証大師が唐の青龍寺にならって伽藍を造営、薬師如来を刻んで本尊に。「金倉寺」になったのは928年、醍醐天皇の勅命で、地名の金倉郷にちなんだ寺名となったようです。」と紹介されています。
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ここ道隆寺は、和気道隆の名前から寺の名前がついた札所であるとのことです。仁王門からなかへ入りますと、多くの見事な観音様が出迎えてくれました。本堂にお参りをして、そろそろ夕暮れ時が近づいてくることから、少し早めに参拝をさせていただき、納経所で御朱印を頂き、最後の札所へ向かいました。
一般社団法人四国八十八ヶ所霊場会のHPを一部引用させて頂くと、同寺は「縁起によると、和銅5年、この地方の領主、和気道隆公が桑の大木を切り、小さな薬師如来像を彫造し、草堂を建てたのが寺の初めといわれる。(中略)大同2年(807)、道隆公の子・朝祐公は唐から帰朝した弘法大師に懇願し、弘法大師自ら90センチほどの薬師如来像を彫造、その胎内に父・道隆公の像を納めて本尊とした。朝祐公は大師から授戒をうけて第2世住職となり、先祖伝来の財産を寺の造営にあてて七堂伽藍を建立、寺名は創建した父の名から「道隆寺」と号した。」と紹介されています。
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瀬戸大橋がかかる宇多津にちなむ郷照寺は、山門までが狭い道が続き、たどり着くのに時間を要してしまいました。境内からは、彼方に瀬戸大橋を望むことができました。霊場会様の解説にあるとおり、札所の中で唯一の「時宗」のお寺であるとのことです。ここまで、香川県の札所を中心に参拝をして参りましたが、札所、札所に、それぞれの縁起やこれまでの数々の変遷があり、歴史の波にもまれながらも、本当に厚い信仰により、今日を迎えられていることを、霊場会様はじめ、数々の文献や実際の建築物を拝観しながら改めて知ることができました。
一般社団法人四国八十八ヶ所霊場会のHPを一部引用させて頂くと、同寺は「境内からは瀬戸内海にかかる瀬戸大橋の眺望が見事である。往時から港町として栄え、「四国の表玄関」とでもいえる場所なので、高僧・名僧との由縁が深い霊場である。地元では「厄除うたづ大師」と呼ばれ、また、四国霊場で唯一「時宗」の霊場である。縁起によると、郷照寺は神亀2年、行基菩薩によって開創された。行基菩薩は55センチほどの阿弥陀如来像を彫造し、本尊として安置され、「仏光山・道場寺」と称した。御詠歌に「道場寺」と詠まれているのもその名残である。その後、大同2年(807)に弘法大師が訪れ、仏法有縁の地であると感得し、大師自身の像を彫造して厄除けの誓願をされた。(中略)「時宗」の開祖・一遍上人(1239〜89)は、正応元年(1288)に逗留して易行・浄土教の教えを広めたことから、真言・時宗の2教の法門が伝わることになり、八十八ヶ所の中で特異な霊場となり、今日も真言三密の教え・浄土易行の教えが脈々と伝わっている。」と紹介されています。
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こうして三日目の宿泊所である、琴平町にある、民泊の宿「ノスタルジー」に投宿することができました。この宿は1950年建築の大切に受け継がれた日本家屋です。喧騒を離れ一軒を貸し切らせて頂くことができ、近所のスーパーで買い出しを行い、気兼ねなく、気ままにくつろがせて頂きました。ユニークな滞在を楽しむことができました。