持続可能な開発目標(SDGs)では、生産と消費について、目標12「つくる責任つかう責任」としてその目標を掲げている。私たちは生きるために働き、そこから生み出された商品やサービスを消費して暮らしている。つまり、米やパン、肉や野菜は言うに及ばず、パソコンやスマホ、そして文化や芸術やスポーツなどを含め生きるために必要なものを生み出して(つくる責任)、それを広い意味で消費(つかう責任)=社会的再生産しながら持続可能な社会を築いてきた。
ところが、経済学では、 軍需品を生産する労働は資本の概念からすれば生産的労働と言えるが、社会的再生産(持続可能性)の観点からすれば不生産的労働、すなわち非再生産的労働と定義される。つまり、軍需品は戦争をしない限り消費されないため、「人の生命を脅かして」はじめて「つかう責任」を果たすという、通常の経済活動から外れた領域に位置する。
同時に軍需品を産業として成立させるためには、いつまでも消費しないままだと時代遅れの軍需品を含め在庫だけが積み上がる。そこで消費或いは償却しなければ次の生産ができないため、何らかのきっかけを探して戦争行為を起こす道を歩まざるを得ない点が「軍需産業」維持・振興の議論の中で指摘されてきた。
経済学的には、国防上の軍事演習による軍需品消費(攻めるのではなく守るための行為)の必要性、必然性の議論はさておき、SDGsの観点からすると軍需産業を持続可能な開発目標12「つくる責任つかう責任」の観点で論ずることは、軍需品が生産と消費との関係において「人の生命を脅かす」財であるという自己矛盾をはらむため、誠に困難極まりないと思料する。
ましてや核兵器を「つくる責任つかう責任」の視点で論じることは、私は政治学者ではないので、あくまで一人の経済学者としての立場ながら、自分にとっては、それ自体あり得ない。
父は元海軍軍人であり、長崎県大村基地(現在の長崎空港)で終戦を迎えている。爆心地周辺から運ばれてきた被爆された方々のケアにあたり、実際の地獄を体験している。
私たちが私たちの未来を語り合い、そして持続可能な社会を創るうえで「つくる責任つかう責任」は重いテーマであることを、今回のロシアによるウクライナ侵攻により再認識させられた。
いつか来た道を繰り返すなと強く申し上げたい。