備中高松城址で一服

寒い日が続きますが、立春を過ぎて、徐々に日中に暖かな日差しがさすようになってきました。2月12日は、吉備津神社から、もう少しだけ足を延ばして、戦国時代の数ある合戦で、豊臣秀吉が奇策として「水攻め」を用いた戦いとして有名な「高松城跡」を散歩いたしました。

岡山県のホームページを引用しますと「浮世をば 今こそ渡れ 武士〈もののふ〉の 名を高松の 苔に残して」この句は、高松城主清水宗治〈しみずむねはる〉が詠んだ辞世ですが、その背景には、高松城をめぐる激しい攻防と、天下統一に向けて急展開を迎えることとなった激動の歴史がありました。」(中略)「江戸時代に著された『太閤記』によると、水攻めに伴う堤は、幅12間(約21m)、高さ4間(約7m)、全長は蛙ヶ鼻を起点に足守川まで約3kmに及ぶ大規模なもので、12日間で築かれたと伝えられていますが、その実像をめぐっては様々な説や考え方があります。いずれにしても、足守川や蛙ヶ鼻での築堤により足守川から水を引き込んで堰き止めるだけでなく、梅雨の時季とも重なった結果、高松城の周囲は水没して孤立することとなりました。
高松城水攻めは、天正10年6月2日、本能寺の変を契機に急展開を迎えます。織田信長の横死〈おうし〉を知った秀吉は、ただちに講和を結ぶべく、領地の譲歩や城兵の助命などを条件に毛利氏と交渉しました。6月4日に宗治が自刃することで和睦が成立し、開城となりました。そして、その2日後、秀吉は明智光秀を討伐するため、後に「中国大返し」と呼ばれる軍勢の大移動を行い、天下統一への道を切り開くこととなったのです。
備中高松城跡の周辺には、宗治の首塚や胴塚、自刃の地など縁〈ゆかり〉の場所があり、宗治の遺徳を偲ばせます。また、高松城址公園資料館では展示された古図や資料により、城や水攻めなどについて学ぶことができます。
」とあります。

いまは、河川工事が施され穏やかに流れる足守川であり、JR桃太郎線(吉備線)を2両のジーゼル列車がのどかに行き交う田園風景が広がります。城址に設置された「高松城水攻め略史」を拝見しながら、こんな作戦をよくも思いついたものだと感心しきりです。

また、ここに陣を張って持久戦をしながら、時あたかも、織田信長が明智光秀に本能寺で討たれ、たった二日で京へ大返しをして明智を討伐した豊臣秀吉の所業を考えると、この策には、さらに裏側に別の意図があったのではないかと自刃した清水宗治の首塚を眺めながら思いを巡らせました。

ともあれ、高松城址名物「備中高松宗治饅頭」を買い求め、資料館を拝観した後で、城址公園の休憩処で賞味させて頂きました。とても上品なお饅頭であります。
そして、広い公園、時間をかけて散歩を楽しみ、コロナ災禍のなかでの運動不足解消、軽い運動とさせて頂きました。
それにしても古代の古墳群から近代まで、様々な歴史に彩られた史跡が岡山には多く存在します。