青天を衝けとリーダー養成研修会

井原市で令和3年度のリーダー養成研修会が開催されました。
井原市に12地区ある「まちづくり推進協議会」の代表者と各地区の市担当者による合同のリーダー養成研修会でした。


研修会開講時刻まで少し余裕がありましたので、井原市文化財センター「古代まほろば館」で開催中の「渋沢栄一と井原」(NHK青天を衝け)を拝観しました。
渋沢栄一は、一橋家の家臣となり、農兵を集めるため領地であった備中国の西江原村(現井原市)を訪れました。郷学・興譲館の館長・阪谷朗廬と語り合い、親交を深め、農兵募集は大成功をおさめ、慶喜に認められます。井原は栄一にとって世に出るきっかけの地でした。

同館によれば、渋沢栄一は、「武蔵国(むさしのくに)榛沢郡血洗島村(はんざわぐんちあらいじまむら)(現埼玉県深谷市)に、藍の製造・販売をする豪農の渋沢家(「中の家」)に生まれる。一橋家の家臣の時代は篤太夫を名乗る。一橋家家臣となった後、将軍の弟・徳川昭武に随行してパリへ行き、欧州の資本主義経済の仕組みを学ぶ。明治4年(1871)から明治政府へ出仕するが、日本の経済の近代化を進めるため、明治6年に官僚を辞任。銀行経営者の団体、東京商工会議所、東京株式取引所の前身を創立し、資本主義経済の基礎を築き、洋紙製造・保険・船舶・鉄道・ホテル・製紙・織物など、凡そ500社の企業の設立・経営に携わった。あわせて福祉・教育・国際協調に力を尽した。幕政改革を進めたが、慶応3年(1867)に、征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)の職を朝廷へ返す「大政奉還(たいせいほうかん)」を断行(だんこう)し、翌年正月の「鳥羽伏見(とばふしみ)の戦い」以後は江戸城を明け渡し、謹慎恭順(きんしんきょうじゅん)した。」と紹介されています。

また徳川幕府最後の15代将軍の徳川慶喜は「一橋家当主時代からの家臣である渋沢栄一を信頼しており、栄一も慶喜の名誉回復に努めた。明治42年(1909)から栄一が出資する慶喜の顕彰事業が開始され、大正7年(1918)に伝記が刊行された。」とされています。


井原市との縁をつくった阪谷朗廬は「漢学者。備中国小田郡九名村(くみようむら)(現井原市美星町)に生まれる。幕府代官所の手代であった父とともに大和国(やまとのくに)、後に江戸へ行き、古賀侗庵(こがとうあん)らに学ぶ。後に帰郷し、嘉永4年(1851)に私塾桜渓塾を開く。2年後に備中一橋領代官友山勝次に招かれ、領内の子弟が通う学校(郷校)興譲館を創立。郷土の人々に尊敬されただけでなく、草莽の志士久坂玄瑞(くさかげんずい)、一橋家家臣の渋沢栄一、備中松山藩の山田方谷(やまだほうこく)、福山藩の関藤藤陰(せきとうとういん)など、著名人と交流があった。明治5年(1872)から同13年まで明治政府に出仕。明治時代には『明六雑誌(めいろくざっし)』に多くの論文を投稿するなど、学者としても活躍した」と紹介されています。

そして、朗廬の四男である阪谷芳郎は「備中国後月郡西江原村に阪谷朗廬(さかたにろうろ)と恭の四男として生まれる。明治3年(1870)に東京へ移住。東京大学文学部政治学理財学科を卒業し大蔵省へ入る。大蔵省在職中は財政運営の中枢にあり、日清(にっしん)・日露(にちろ)の両戦争の戦費調達や戦後経営に尽力。明治36年(1903)に大蔵次官、39年1月に西園寺公望内閣の大蔵大臣となる。同41年1月辞任。同45年7月から大正4年(1915)6月まで東京市長。専修大学の2代目学長、初代総長。そして、明治21年(1888)に、渋沢栄一と千代の次女・琴子は結婚しました。すでに朗廬は亡くなっていましたが、栄一が一橋家家臣時代以来、朗廬と親しい間柄であったことも、芳郎を婿に選んだ理由の一つだったことでしょう。明治21年当時の芳郎は、東京帝国大学を卒業し大蔵省へ入省したエリート官僚で、前年11月に栄一の別荘で開かれた晩さん会へ出席し、栄一と琴子に気に入られたのです。芳郎と琴子は2男5女に恵まれました。」とされています。


栄一と井原市との関係は「元治元年(1864)から一橋家(当主慶喜)に仕えた渋沢栄一は、慶応元年(1865)2月から翌年2月にかけて、農兵(歩兵:農民から集められた鉄砲隊の兵士)募集と領内の産業の発展のために代官所(江原陣屋)を始めとして、備中一橋領を何度も訪れ、大きな成果をあげました。それまで1年間、従兄の渋沢喜作とともに行動していた栄一ですが、単独で農兵募集のことを献策すると、「歩兵取立御用掛」という役を命じられ、必ず成功させると決心して備中一橋領へ向かったのです。25歳の栄一は、この地で誠意をもって人々と向き合い、見事任務を成功させました。そして慶喜からも認められ「速やかに大役を成し遂げて満足に思う」というお褒めの言葉を賜り、白銀5枚と時服一重ねの褒美を賜ったのです。」とあります。

拝観では、上記を説明するパネルにあわせて、歴史を証明する徳川家や栄一に縁の品々が展示されていました。
展示されていた徳川慶喜書「博く民に施し能(よ)く衆を済(すく)う」は、さすが素人の私にも達筆であると感じました。ただ、論語は難しいと改めて痛感しました。
限られた時間でしたが、幕末と維新の歴史の一ページを、井原という窓から興味深く垣間見ることができました。
青天を見上げ熱中症と新種コロナに気をつけねばと念じた酷暑の日の思い出となりました。


さて、リーダー養成研修会では、大舌勲市長も参加されました。
平成27年から井原市のお手伝いをしてきた歩みを紹介しながら、地方創生総合戦略の内容を核として、参加した各「まちづくり推進協議会」の主要な活動のひとつに「井原市がんばる地域応援補助金」制度があります。この補助金制度は、地区まちづくり協議会及び井原市まちづくり協議会連絡会議が、自ら企画立案し実施するまちづくり事業であり、住民の皆さんが地域課題の解決や、よりよい住民生活をおくるために実施するまちづくり事業に対して財政支援を行うことで、住民の皆さんが「住んでいてよかった、住み続けたい」と思えるまちの実現を図ることを目的としています。上限は100万円です。
さらに同制度に加え、地域の活力づくりとなる人口増を目指した移住定住促進事業等である、空き家対策及び移住者支援事業、子育て支援を図る事業、市外在住者との交流を図る事業、その他市長が必要と認める事業に該当する、人口増を目指した地方創生に関する事業について150万円を上限に実施しています。
こうした事業の更なる促進を狙いとしたリーダー養成研修の内容とさせて頂きました。
研修会終了後、市長応接で、次回以降の進め方について意見交換をさせて頂きました。
内容の濃い井原での一日でした。