さて、今回の八十八か所札所巡りで、義姉が一番楽しみにしていた札所が、弘法大師の生い立ちと建立にゆかりが深い善通寺です。まさに、霊場会様の紹介にある通り「誕生院」の院号は、お大師さま御誕生の地であることを示しています。御誕生所である善通寺は、京都の東寺、和歌山の高野山とならぶ弘法大師三大霊跡のひとつとして、古くから篤い信仰をあつめてまいりました。」として、特別な札所であると言っても過言ではありません。11月5日の午後、本堂、五重塔、大師堂、薬師堂と、ゆるりと時間をかけて参らせて頂きました。
御朱印も頂き、義姉も大満足の様子でありました。
一般社団法人四国八十八ヶ所霊場会のHPを一部引用させて頂くと、同寺は「五岳山 善通寺の創建は、『多度郡屏風浦善通寺之記』(江戸時代中期成立)によると、唐より帰朝されたお大師さまが、御父の寄進した四町四方の地に、師である恵果和尚の住した長安・青龍寺を模して建立したお寺で、大同2年(807)臘月(陰暦12月)朔日に斧始めを行い、弘仁4年(813)6月15日に落慶し、父の諱「善通(よしみち)」をとって「善通寺」と号したと記されています。鎌倉時代に佐伯家の邸宅跡に「誕生院」が建立され、江戸時代までは、善通寺と誕生院のそれぞれに住職をおく別々のお寺でしたが、明治時代に至り善通寺として一つのお寺となりました。現在は真言宗善通寺派の総本山であり、また四国八十八ヶ所霊場の75番札所でもあります。(中略)そして、「誕生院」の院号は、お大師さま御誕生の地であることを示しています。御誕生所である善通寺は、京都の東寺、和歌山の高野山とならぶ弘法大師三大霊跡のひとつとして、古くから篤い信仰をあつめてまいりました。」と紹介されています。
さて、札所巡りの順番はあるのですが、標高約770メートルの胎蔵ヶ峰を背に静かに佇む結願寺である、第八十八番札所大窪寺は、弘法大師が修行したと伝わり、巡礼の最後を締めくくる聖地として多くの人々が足を運ぶ札所です。今回の札所巡りでは、ぜひ、お参りをさせて頂きたいとの義姉の切なる願いから、善通寺から一路大窪寺を目指しました。香川県の最奥の山間部にあるため、クルマを山の峰に向けて走らせました。そして結構な時間をかけて、ようやく着くことができました。昼食の時間でありましたので、お参りの前に、名物の「うどん」を頂くことにいたしました。具だくさんで、麺は細麺です。巡礼の力を出し尽くして、最後にたどり着いたお遍路さんに、パワーを供給したうどんだと感じました。ここで力を蓄えてから、お参りをさせて頂きました。静寂の境内は、イチョウの黄色とモミジの朱色が鮮やかに映えて、秋の色に染まり、見事な景観でありました。また、この札所には、お参りを全て済ませたお遍路さんが、その金剛杖をお納めする寶杖堂(ほうじょうどう)も設けられています。こうした札所巡りで得られた心身のお清めは、筆舌しがたい崇高なものであると感じた次第です。
一般社団法人四国八十八ヶ所霊場会のHPを一部引用させて頂くと、同寺は「八十八ヶ所結願(けちがん)の霊場「大窪寺」。徳島県の県境に近い矢筈山(標高788m)の東側中腹に位置します。縁起によると、養老元年に行基菩薩がこの地を訪れた際に、霊夢を感得し草庵を建て修行をしたと言われます。弘仁6年に、唐から帰国した弘法大師が、現在の奥の院にある岩窟で、虚空蔵求聞持法を修法し堂宇を建立。等身大の薬師如来坐像を彫造し本尊とされました。また唐の恵果阿闍梨より授かった三国(印度、唐、日本)伝来の錫杖を納めて大窪寺と名づけ、結願の地と定めました。本堂西側にそそりたつ女体山には奥の院があります。(中略)「同行二人」を共にした金剛杖などは、大師堂脇の寶杖堂(ほうじょうどう)へ奉納されます。これらは毎年春夏の「柴灯護摩供(さいとうごまく)」で供養されます。」と紹介されています。
結願寺へのお参りを済ませて、時間の残されたなかで、順番を逆に回れる札所を訪れることにいたしました。麓にあります長尾寺に参りました。ここも弘法大師にゆかりが深いお寺であり、境内の静けさと広さに目を見張りました。高松藩主の松平公にもゆかりが深いお寺であります。
一般社団法人四国八十八ヶ所霊場会のHPを一部引用させて頂くと、同寺は「開創は聖徳太子という説もありますが、天平十一年に行基菩薩の説が一般的。行基がこの地を歩いていると道端に楊柳の霊夢を感じ、その木で聖観音菩薩像を彫造し本尊としました。その後、弘法大師がこの寺を訪れ、入唐が成功するように年頭七夜に渡り護摩祈祷を修法して国家安泰と五穀豊穣を祈願されました。その祈願は現在にも受け継がれ、毎年正月の七日には「大会陽」が盛大に開催されています。唐から戻った大師は、再びこの地を訪れ「大日経」を一石に一字ずつ書写し供養塔を設立し、その時に真言宗に改宗。長きに渡り多くの天皇から帰依された寺でしたが、天正の兵火により、本堂以外は灰燼に帰します。江戸時代に藩主松平頼重が、堂塔を整備。その時に天台宗に改めています。」と紹介されています。
さて、山から長尾寺を経て一気に海へ出ますと、そこには志度寺がございます。平賀源内のお墓もあると表札がありました。ここ志度寺は、これまで訪れた札所では、最も緑が多くて、木々の中に、本堂や五重塔、大師堂などが隠れているといった印象を受けました。とても素敵なお寺です。いろいろ廻りながら、仏様の一つ一つにお参りをさせて頂きました。心を静かにさせてくれるお導きを頂いたようでございました。
一般社団法人四国八十八ヶ所霊場会のHPを一部引用させて頂くと、同寺は「香川県東部、志度湾に面して建立される志度寺。海の向こうはるかには、屋島や五剣山の稜線を望めます。開創は古く推古天皇33年(625)、四国霊場屈指の古刹です。(中略)寛文10年(1671年)高松藩主松平頼重の寄進などにより再興されました。志度は、江戸時代の奇才平賀源内の故郷であり、近くに記念館があります。」と紹介されています。
志度寺は海の傍でしたが、次の八栗寺は、一転、急な曲がりくねった坂道を、どんどん山頂までクルマを進めますと、深山の言葉がぴったりな、山の頂に並んで建てられた、お堂が、次々と現れます。その雄大な光景に思わず息をのみました。ここはロープウエイもあるようで、そちら側から登りますと山門に出るようです。山門の先には展望デッキがあり、瀬戸内海の島々を一望できる最高のスポットがありました。この境内は、誠に広くて深く、霊験あらたかな名刹にふさわしい、香川県の札所を代表するスポットであると感じ入りました。
一般社団法人四国八十八ヶ所霊場会のHPを一部引用させて頂くと、同寺は「屋島の東、源平の古戦場を挟み標高375mの五剣山があります。地上から剣を突き上げたような神秘的な山です。八栗寺はその8合目にあり、多くの遍路さんはケーブルカーで登られます。 天長6年、大師がこの山に登り求聞寺法を修めた時に、五振りの剣が天振り注ぎ、山の鎮守蔵王権現が現れました。そして「この山は仏教相応の霊地なり」と告げられたので、大師はそれらの剣を山中に埋め鎮護とし大日如来像を刻み五剣山と名付けられました。五剣山の頂上からは、讃岐、阿波、備前など四方八国が見渡すことができたので、もともと八国寺という寺名でした。 延暦年中、師は唐に留学する前に、再度この山に登りました。そして入唐求法の成否を占うために8個の焼き栗を植えられました。無事帰国し、再び訪れると、芽の出るはずない焼き栗が芽吹いていました。これが八国寺を八栗寺へ改名した由来です。」と紹介されています。
こうして札所巡りを終えまして、屋島の麓にある民宿「ささや」へチェックインいたしました。