四国八十八か所巡りの旅③


石鈇山 金色院 前神寺
さて、三日目のスタートは、納経所が開く8時に、宿泊した湯之谷温泉の近くにある前神寺へ参拝させて頂きました。霊場会様のHPにある通り、「江戸時代には、西条藩主松平家の祈願所となり三つ葉葵の寺紋を下賜するなど寺運は隆盛を極めた」ため、家紋が葵の紋になっていることが目をひきました。また、霊峰、石鎚山を祀る石鎚神社との関係も深いことから、歴代の天皇家との関係が深いことを学ぶことができました。
一般社団法人四国八十八ヶ所霊場会のHPを一部引用させて頂くと、同寺は「山岳信仰の山として崇拝される日本七霊山の一つである石鎚山(標高1982m)の麓の霊場で、真言宗石鈇派の総本山であり、修験道の根本道場でもある。開創は、天武天皇(在位673~86)時代に修験道の祖・役行者小角が石鎚山で修行を積んだ後、衆生の苦を救済するために釈迦如来と阿弥陀如来が石鈇山大権現となって現れたのを感得し、尊像を彫って安置し祀ったことに縁起する。その後、桓武天皇(在位781~806)が病気平癒を祈願し成就されたことにより七堂伽藍を建立し、勅願寺「金色院・前神寺」の称号を下賜された。以降、文徳天皇、高倉天皇、後鳥羽天皇、順徳天皇など多くの歴代天皇の信仰が厚かった。後に空海(弘法大師)も2度石鎚山を巡鍚し虚空蔵求聞持法や護摩修行、断食修行などを行ったことが知られている。江戸時代には、西条藩主松平家の祈願所となり三つ葉葵の寺紋を下賜するなど寺運は隆盛を極めたが、明治維新の神仏分離令により寺領を没収され、一時は廃寺を余儀なくされた。明治22年に前神寺として復興をはたし真言宗石鈇派総本山として法灯を伝えている。毎年恒例の7月1日からの「お山開き」には白衣姿の信徒が結集し、法螺貝の音に「なんまいだ」を唱和している。」と紹介されています。

由霊山 慈尊院 三角寺
さて、前神寺から遠く離れて、愛媛県最後の札所である三角寺が、四国中央市の山腹にあり、高速道路を使いながら一気に階段下の駐車場までクルマを乗り付けました。きつい石段を登り詰めると、そこには、美しい花々が咲く、広い境内が広がりました。晩秋ながら桜の花が咲いているのに驚きました。また、霊場会様のHPで学んだ三角寺の由来である、「三角の池」を興味深く眺めました。また、立派な本堂や大師堂も見事でありました。
一般社団法人四国八十八ヶ所霊場会のHPを一部引用させて頂くと、同寺は「江戸時代の俳人・小林一茶が寛政7年(1795)に訪れたとき、「これでこそ 登りかひあり 山桜」と詠まれただけあって、山内は樹齢3、400年の桜が爛漫となる名所である。伊予最後の霊場で、標高は約360m、平石山の中腹にある静かな境内。縁起では、聖武天皇(在位724〜49)の勅願によって、行基菩薩が弥勒の浄土を模して具現するために開創したと伝えられる。その後、弘仁6年(815)に弘法大師が訪れ、本尊の十一面観音像を彫造して安置された。さらに、大師は不動明王像も彫られ、三角の護摩壇を築いて21日間、国家の安泰と万民の福祉を祈念して「降伏護摩の秘法」を修法されたという。この護摩壇の跡が庫裡と薬師堂の間にある「三角の池」の中の島として現存し、寺院名の由来ともなっている。また、嵯峨天皇(在位809〜23)の厚い信仰をうけ、寺領300町歩をいただき、七堂伽藍を備えて寺運は隆盛だったと伝えられる。だが、長宗我部軍の「天正の兵火」に遭い、一部の堂宇を焼失した。現在の本堂が再建されたのは嘉永2年(1849)で、昭和46年に修復されている。本尊は古くから開運厄除けの観音・安産子安の観音さんとして、信仰を仰いでいる。ご祈祷をうけたお守りと腹帯が授けられ、また、「子宝杓子」といって、子宝に恵まれない夫婦が寺で杓子を授かり、仲良く食事をすると子宝に恵まれると伝えられる。子供を授かった後に、新しい杓子と授かった杓子をもってお礼参りをする。」と紹介されています。

巨鼇山 千手院 雲辺寺
愛媛県最後の三角寺から香川県へ入り、八十八ヶ所の札所のなかで、一番高いところにあり、人気も高い雲辺寺へ参りました。これまでは、香川県側からロープウエーで参拝いたしましたが、この度は、初めて徳島県側からクルマで回り込み、駐車場から高い杉並木の参道を歩きで境内を目指しました。霊場会様の解説によると「四国の各国から馳せ参じる僧侶たちの学問・修行の道場となり、「四国高野」と称されて栄えた。」との教えの通り、高野山のように深山に広い境内があり、五百羅漢が出迎えてくれます。また、丁度、紅葉が見事でありました。また、瀬戸内海が一望できる展望台は、絶景のスポットです。
一般社団法人四国八十八ヶ所霊場会のHPを一部引用させて頂くと、同寺は「四国霊場のうち最も高い標高911メートル、四国山脈の山頂近くにある霊場で、「遍路ころがし」と呼ばれる難所とされた。現在は、麓からロープウエーで山頂駅まで登ることができる。住所は徳島県だが、霊場としては讃岐の打ち始めでいわば「関所寺」。縁起によると、弘法大師は雲辺寺に3度登っている。最初は延暦8年、大師が16歳のときで善通寺(第七十五番)の建材を求めてであったが、深遠な霊山に心うたれて堂宇を建立した。これが雲辺寺の創建とされている。2度目は大同2年(807)、大師34歳のとき、唐から請来した宝物で秘密灌頂の修法をなされたという。さらに弘仁9年(818・大師45歳)、嵯峨天皇(在位809〜23)の勅を奉じて登り、本尊を彫造して、仏舎利と毘廬遮那法印(仏法石)を山中に納めて七仏供養をし、霊場と定められた。霊場は、俗に「四国坊」と呼ばれ、四国の各国から馳せ参じる僧侶たちの学問・修行の道場となり、「四国高野」と称されて栄えた。貞観年間(859〜77)には清和天皇(在位858〜76)の勅願寺にもなっている。鎌倉時代は七堂伽藍も整備されて、境内には12坊と末寺8ヶ寺を有した古刹として阿波、伊予、讃岐の関所でもあったという。天正年間(1573〜92)に土佐の豪族・長宗我部元親がこの地の白地城に陣して雲辺寺に参拝し、裏山から眼下を望み四国制覇を目指したが、当時の住職に諫められた。雲辺寺の歴史にも消長はあるが、江戸時代になってからは阿波藩主・蜂須賀公の手厚い保護をうけた。千古の杉に囲まれ、雲に包まれながら法灯を守っている。」と紹介されています。

小松尾山 不動光院 大興寺
一般社団法人四国八十八ヶ所霊場会のHPを一部引用させて頂くと、同寺は「地元では大興寺というより、山号にちなむ「小松尾寺」という呼称が親しまれ、近傍一帯の集落を小松尾と呼ぶ。縁起によると、天平十四年(742)熊野三所権現鎮護のために東大寺末寺として現在地よりも約1キロ北西に建立され、延暦11年(792)大師の巡錫を仰ぎ、弘仁13年(823)嵯峨聖帝の勅により再興されたと伝えられている。しかしながら、戦国時代末、長宗我部元親の兵火により一部を残してことごとくを焼失、慶長年間(1596〜1615)に再建されたが再び焼亡、本堂は寛保元年(1741)に建立されたものである。現在の大興寺は真言宗の寺院であるが、往時真言二十四坊天台十二坊が甍を連ね、同じ境内で真言天台二宗が兼学したという珍しい来歴を持つ。そのためか天台宗の影響が大きく、本堂に向かって左側の弘法大師堂とともに、右側に天台宗第三祖智顗を祀る天台大師堂があるという配置にその名残を留めている。また本尊脇侍は不動明王と毘沙門天であるが、不動明王は天台様式である。香川県の文化財として指定されているのは次の5件である。1つは像高84センチの本尊藥師如來坐像で、平安後期、檜寄木造り、漆箔、伝弘法大師作。鎌倉時代後期建治2年(1276)の銘がある天台大師坐像は檜寄木造り彩色で像高77.4センチ。天台大師の彫像は極めて少ない。弘法大師坐像は近年の調査により天台大師坐像と同じ建治2年の作であることが判明し、文化財として指定された。四国最古の銘のある弘法大師像である。仁王門にある雄渾な二つの金剛力士立像は仏師として名高い運慶の作と伝えられ、像高314センチ。鎌倉初期の作、八十八ヶ所中最大とされる。「大興寺」と記された扁額には文永4年(1267)の年号と「従三位藤原朝臣経朝」の裏書きがある。」と紹介されています。

七宝山 神恵院
一般社団法人四国八十八ヶ所霊場会のHPを一部引用させて頂くと、同寺は「六十八番・神恵院も六十九番・観音寺も琴弾公園内の琴弾山の中腹にあります。2つの札所が同じ境内に存在する、とても珍しい霊場です。開基したのは法相宗の高僧・日証上人といわれています。大宝3年(703)この地で修行中、宇佐八幡宮のお告げを受け、かなたの海上で神船と琴を発見。琴弾山に引き上げ、「琴弾八幡宮」を建立して祀りました。このとき、神宮寺として建てられた寺が起源とされています。大同2年(807)弘法大師が琴弾八幡宮の本地仏である阿弥陀如来を描いて本尊として祀り、後に院号を「神恵院」とし、六十八番霊場としました。その後、明治初年の神仏分離令で八幡宮は琴弾神社と神恵院に分離され、神恵院は麓の観音寺境内に移転。同時に八幡宮に安置されていた阿弥陀如来像も西金堂(さいこんどう)に移されました。以降、「神恵院」は西金堂(2002年に新築)を本堂に、阿弥陀如来像を本尊として今に至っています。」と紹介されています。

七宝山 観音寺
一般社団法人四国八十八ヶ所霊場会のHPを一部引用させて頂くと、同寺は「観音寺が第六十八番・神恵院と同一境内にあり、開基も創建の時期や由縁も同じであることは、前項で述べている。ただ、創建されたころの寺号は「神宮寺宝光院」と称した。以来、100年後の縁起からたどる。大同2年(807)、弘法大師は琴弾八幡宮の本地仏である阿弥陀如来像を納めたとき、この寺の第7世住職となって入山したと伝わる。そこで大師は、琴弾山の中腹に奈良の興福寺に倣って中金堂、東金堂、西金堂の様式で七堂伽藍を建立し、その中金堂には本尊とする聖観世音菩薩像を彫造して安置した。さらに、この地に仏塔を建てて瑠璃、珊瑚、瑪瑙などの七宝を埋め、地鎮をしたことから、寺名の神宮寺を「七宝山・観音寺」に改め、霊場に定めたとされている。桓武天皇(在位781〜806)はじめ3代の天皇の勅願所となり、また室町時代には足利尊氏の子・道尊大政大僧正が住職として45年間務めるなど、寺運は隆盛を誇った。だが、やはり明治新政府の神仏分離令により本地仏を移し、一境内に二霊場となった。本堂は、金堂とも呼ばれて室町時代の建築で国指定重要文化財。朱塗りの柱が色鮮やか。境内には宝物館があり、彫刻としては珍しい「仏涅槃像」(厨子入り、平安〜鎌倉時代)をはじめ、絵画では「琴弾宮絵縁起」(絹本著色、鎌倉時代)、「不動二童子像」(絹本著色、室町時代)のほか、前項で触れた本地仏像など国の重要文化財が数多く収蔵されている。」と紹介されています。

七宝山 持宝院 本山寺
一般社団法人四国八十八ヶ所霊場会のHPを一部引用させて頂くと、同寺は「四国霊場では竹林寺・志度寺・善通寺とこの本山寺の4ヶ所だけという五重塔が目印。天暦3年(950)の建立でしたが損傷が激しく明治43年に再建されました。また、本尊は馬頭観世音菩薩で四国霊場では唯一のもの。頭上に馬頭をいただく観音様で、祀られている本堂のそばには馬の像が控えています。大同2年(807)平城天皇の勅願により、弘法大師が七十番札所として開基。当時は「長福寺」という名で、本堂は大師が一夜ほどの短期間にて建立したという伝説が残ります。およそ2万平方メートルの広大な境内には国宝の本堂はじめ、仁王門、五重塔、鎮守堂、大師堂、十王堂、赤堂(大日堂)、慰霊堂、鐘楼、客殿などが並び、大寺として栄華を極めた当時を偲ばせます。天正の兵火では長宗我部軍が本堂に侵入の際、住職を刃にかけたところ脇仏の阿弥陀如来の右手から血が流れ落ち、これに驚いた軍勢が退去したため本堂は兵火を免れたといわれます。この仏は「太刀受けの弥陀」と呼ばれています。その後、「本山寺」と名を改め、今に至ります。」と紹介されています。

鶏足山 宝幢院 金倉寺
一般社団法人四国八十八ヶ所霊場会のHPを一部引用させて頂くと、同寺は「金倉寺は、弘法大師の甥で天台寺門宗の開祖「智証大師」が誕生した地。縁起によると、弘法大師が生まれた宝亀5年に智証大師の祖父・和気道善(わけどうぜん)が建立し、道善は「自在王堂」と名づけ、仁寿元年(851)11月に官寺となった際に開基の名をとって「道善寺」となりました。その後、唐から帰朝した智証大師が唐の青龍寺にならって伽藍を造営、薬師如来を刻んで本尊に。「金倉寺」になったのは928年、醍醐天皇の勅命で、地名の金倉郷にちなんだ寺名となったようです。「智証大師」は、子供の頃「日童丸」と呼ばれ、たいそう賢いと評判でした。智証大師が2歳の時には、一人で遊んでいる幼い体からなんとも言えない後光が射しているのを付近の人々が見たといわれています。そして、「きっと仏様が生まれ変わったに違いない。将来は必ず立派なお方になられるだろう。」と、この地に立派な子が生まれたと喜び合ったそうです。また、5歳の時には目の前に天女が現れ、「貴方は三光天の一人、明星天子であり、虚空蔵菩薩の仮の姿。貴方が将来仏道に入るなら私がずっとお守りしましょう。」と告げられたという伝説も。この天女こそが、よその子供を食べた罪でお釈迦様に末子をとられ、子供を失った母の辛さを教えられた後に仏になったとされる「訶利帝母(かりていも)」(別名「鬼子母神(きしもじん)」)でした。こうして訶利帝母に守られて育った智証大師は、修行を重ね、仏法を広めることに精進できたといわれています。」と紹介されています。

桑多山 明王院 道隆寺
一般社団法人四国八十八ヶ所霊場会のHPを一部引用させて頂くと、同寺は「仁王門をくぐると、ブロンズの観音さんがずらりと並んで迎えてくれる。創建ころのこの付近一帯は広大な桑園で、絹の生産地であったようである。縁起によると、和銅5年、この地方の領主、和気道隆公が桑の大木を切り、小さな薬師如来像を彫造し、草堂を建てたのが寺の初めといわれる。道隆公は、周囲5メートル近い桑の大木が、夜ごと妖しい光を放っているのを見た。この光を怪しみ矢を射ると、女の悲鳴があり、乳母が倒れて死んでいた。嘆き悲しんだ道隆公は、その桑の木で仏像を彫り、草堂に安置して供養する。大同2年(807)、道隆公の子・朝祐公は唐から帰朝した弘法大師に懇願し、弘法大師自ら90センチほどの薬師如来像を彫造、その胎内に父・道隆公の像を納めて本尊とした。朝祐公は大師から授戒をうけて第2世住職となり、先祖伝来の財産を寺の造営にあてて七堂伽藍を建立、寺名は創建した父の名から「道隆寺」と号した。第3世は弘法大師の実弟にあたる真雅僧正(法光大師)が嗣ついで二十三坊を建立し、第四世の円珍(智証大師)は五大明王、聖観世音菩薩像を彫造して護摩堂を建立、次の第5世聖宝(理源大師)の代には「宝祚祈願所」となっている。高僧が相次いで寺勢は栄えたが、貞元年間(976〜78)の大地震による堂塔の倒壊や、康平3年(1060)の兵火、また「天正の兵火」に遭うなど興亡をくり返しながらも、法灯を守り続けている。」と紹介されています。

仏光山 広徳院 郷照寺
一般社団法人四国八十八ヶ所霊場会のHPを一部引用させて頂くと、同寺は「境内からは瀬戸内海にかかる瀬戸大橋の眺望が見事である。往時から港町として栄え、「四国の表玄関」とでもいえる場所なので、高僧・名僧との由縁が深い霊場である。地元では「厄除うたづ大師」と呼ばれ、また、四国霊場で唯一「時宗」の霊場である。縁起によると、郷照寺は神亀2年、行基菩薩によって開創された。行基菩薩は55センチほどの阿弥陀如来像を彫造し、本尊として安置され、「仏光山・道場寺」と称した。御詠歌に「道場寺」と詠まれているのもその名残である。その後、大同2年(807)に弘法大師が訪れ、仏法有縁の地であると感得し、大師自身の像を彫造して厄除けの誓願をされた。この木造の大師像は「厄除うたづ大師」としていまも広く信仰されている。京都・醍醐寺の開山として知られる理源大師(聖宝・832〜909)がこの寺に籠山し修行したのは仁寿年間(851〜54)とされ、また、浄土教の理論的基礎を築いた恵心僧都(源信・942〜1017)が霊告を受けて釈迦如来の絵を奉納し、釈迦堂を建立したのは寛和年間(985〜87)とされている。さらに、仁治4年(1243)には『南海流浪記』の著者及び中院流の祖である高野山の道範阿闇梨が配流となったとき、この寺を仮寓にした。「時宗」の開祖・一遍上人(1239〜89)は、正応元年(1288)に逗留して易行・浄土教の教えを広めたことから、真言・時宗の2教の法門が伝わることになり、八十八ヶ所の中で特異な霊場となり、今日も真言三密の教え・浄土易行の教えが脈々と伝わっている。」と紹介されています。