初日は、並びの列が長くて、道後温泉本館の入湯を諦めました。そこで、11月3日、早朝、道後温泉が6時からの営業開始に合わせて、本館に朝風呂を楽しもうと参りました。ところで、本館1階の一般客用の男湯は、かつては、脱衣所はひとつでしたが、湯船は二つありました。ところが改装により、湯船がひとつになりました。朝一からの入湯でしたが、湯船に入れないくらいお客様で一杯でした。ともあれ、順番を待って無事にゆるりと楽しむことができました。
さて、札所参りの二日目です。
愛媛県の中では、松山市が県庁の所在地であり、その松山市のエリアにある札所では、石手寺が有名です。ここは安産の祈願にご利益があることが言われており、実は、私自身の安産を両親が祈願してくれました。そこで、孫の安産祈願もさせて頂きました。
また、同寺には、八十八か所を一度に廻れる、山腹をくりぬいて洞窟にして胎内巡りができます。洞窟の中は暗いのですが、手探りで廻りました。
霊場会様の紹介にある通り、国宝の仁王門はじめ、四国霊場では随一ともいえる文化財の寺院の境内を巡りました。残念ながら、鎌倉時代に造られた三重塔は重要文化財で、2024年8月から約90年ぶりの修復工事中であり拝観が出来ませんでした。
一般社団法人四国八十八ヶ所霊場会のHPを一部引用させて頂くと、同寺は「日本最古といわれる道後温泉の近く。参道が回廊形式となり仲見世のみやげ店が並ぶ。境内は、巡礼者よりも地元のお大師さん信者や観光客が多い霊場である。そのもう一つの要因は、境内ほとんどの堂塔が国宝、国の重要文化財に指定されている壮観さで、それに寺宝を常時展示している宝物館を備えており、四国霊場では随一ともいえる文化財の寺院である。まず、一部を簡略にふれておこう。国宝は二王門で、高さ7m、間口は三間、横4m、文保2年(1318)の建立、二層入母屋造り本瓦葺き。重要文化財には本堂をはじめとして、三重塔、鐘楼、五輪塔、訶梨帝母天堂、護摩堂の建造物と、「建長3年」(1251)の銘が刻まれた愛媛県最古の銅鐘がある。」と紹介されています。
朝から、時間をかけて参拝させて頂きました。
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ここから次の札所である大寶寺は、随分と離れています。
クルマで高知県との県境である三坂峠を目指し、途中から石鎚山方面へ折れて、山へ向かいました。クルマでさえ大変ですので、ここまで歩いて向かうお遍路さんは、相当のご苦労であると容易に想像できます。その紹介を霊場会様のHPでうかがうことができます。
一般社団法人四国八十八ヶ所霊場会のHPを一部引用させて頂くと、同寺は「四十三番明石寺からの道のりは約80㎞、峠越えの難所がつづき、歩けば20時間を超す「遍路ころがし」の霊場。四国霊場八十八ヶ所のちょうど半分に当たり、「中札所」といわれる。四国山地に囲まれた標高579mに位置し、境内は老樹が林立し、幽寂な空気が漂う。縁起は大和朝廷の時代まで遡る。(中略)弘法大師がこの地を訪れたのは、およそ120年後で弘仁13年(822)、密教を修法されて、四国霊場の中札所と定められ、これを機に天台宗だった宗派を真言宗に改めた。」と紹介されています。
とても古い縁起があることを学びながらお参りをさせて頂きました。
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さて、八十八ヶ所霊場の中で、山の高い場所にある名刹として知られている岩屋寺を目指しました。霊場会様のHPでは、岩屋寺にて一遍上人が修業を積んだという記録が残されており、もちろん、弘法大師が訪れた記録もある、険しい山肌に寄り添い建立されている見事な寺院です。まさに岩の屋のお寺です。
一般社団法人四国八十八ヶ所霊場会のHPを一部引用させて頂くと、同寺は「標高700m。奇峰が天を突き、巨岩の中腹に埋め込まれるように堂宇がたたずむ典型的な山岳霊場である。神仙境をおもわせる境内は、むかしから修験者が修行の場としていたようで、さまざまな伝承が残されている。弘法大師がこの霊地を訪ねたのは弘仁6年とされている。(中略)一遍上人(1239〜89)が鎌倉時代の中期にこの古刹で参籠・修行したことは、『一遍聖絵』にも描かれており、13世紀末ごろまでにはこれらの不動尊像をはじめ、護摩炉壇、仙人堂、49院の岩屋、33の霊窟などがそのまま残っていたと伝えられる。(中略)大師堂は国指定重要文化財、寺域は国の名勝、県立自然公園の指定地でもある。」と紹介されています。
本堂から山肌へ登るハシゴがかけられており、その展望台のようなところから眼下を見渡せるようになっています。また、納経所の傍からは、長く山の奥に続く洞窟が掘られており、ここへのお参りにもゆるりと時間をかけさせて頂きました。
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さて、時間をかけて岩屋寺にお参りを済ませて、山越えで黒森峠を抜けて、旧国道11号線まで戻りました。それから、私の生まれ故郷である、西条市小松町へ一気に向かいました。まず、手打ちうどんの『優月』で、腹ごしらえをいたしました。ここのうどんは、讃岐うどんよろしく、コシが強く、麺そのものの味と喉越しを楽しめました。
ここからほど近い、香園寺へ参拝いたしました。ここ香園寺は、子供の頃から慣れ親しんだお寺です。小学校の時に、登下校の途中に同寺があるため、境内は良き遊び場でした。また、この辺には、同級生が多くて、ここを拠点に自宅へ寄って遊んで帰ったものです。また、ここ香園寺の奥の院として、白瀧寺があり、中学時代には剣道部であり、練習後、ここ白瀧まで往復のランニングが日課でした。さて、本堂や大師堂は、昔は木造の立派な建物でしたが、現在は、鉄筋造りの巨大な本堂と大師堂に生まれ変わっています。一度に大勢の参拝客を収容できる造りです。
一般社団法人四国八十八ヶ所霊場会のHPを一部引用させて頂くと、同寺は「香園寺は聖徳太子(574〜622)の開基という四国霊場屈指の古刹であり、一方、境内には本堂と大師堂を兼ねた超近代的な大聖堂を構えている。また、寺が創始した子安講の輪は、海外にまで広がり現在20,000人を超えている。縁起によると、用明天皇(在位585〜87)の病気平癒を祈願して、皇子である聖徳太子が建立したと伝えられる。このときに、太子の前に金の衣を着た白髪の老翁が飛来して、本尊の大日如来像を安置したとも伝えられ、また、天皇からは「教王院」の勅号を賜った。のち、天平年間(729〜49)には行基菩薩(668〜749)が訪ねている。弘法大師が訪れたのは大同年間(806〜10)であった。(中略)明治36年に晋山した山岡瑞園大和尚により、大正3年に本堂を再興し、同7年には「子安講」を創始して、全国の行脚はもとより、東南アジアやアメリカまで足を延ばし、講員の拡大と寺の隆盛に尽力している。」と紹介されています。
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香園寺の次は、ほど近い宝寿寺を目指しました。宝寿寺は、JR伊予小松駅の傍です。霊場会様のHPで学ばせて頂いたのですが、「この地に大国主大神ら三神を祀る伊予の一の宮神社が建立」「予讃線鉄道工事にともない、さらに南側の現在地に移転した」のくだりがあります。いままで気が付かなかったのですが、伊予小松駅の向こう側に「一の宮神社」があるのです。線路の向こうとこちらなので、全く気が付きませんでした。地元の歴史を、札所参りをして学ぶことができました。
一般社団法人四国八十八ヶ所霊場会のHPを一部引用させて頂くと、同寺は「往時は伊予三島水軍の菩提寺として、また、大山祇神社の別当寺として栄えていたのが宝寿寺の沿革である。縁起によると、天平のころ聖武天皇(在位724~49)は諸国に一の宮を造営した。その折、この地に大国主大神ら三神を祀る伊予の一の宮神社が建立され、大和の僧・道慈律師(?~744)が勅命をうけて法楽所としての別当寺を創建したのがはじめとされる。(中略)弘法大師がこの地方を訪ねたのは大同年間(806~10)で、寺に久しく留まり聖武天皇の妃である光明皇后の姿をかたどった十一面観世音菩薩像を彫造した。これを本尊とし、寺名を「宝寿寺」と改めて霊場とされた。(中略)天正13年(1585)豊臣秀吉の四国征伐の戦禍で壊滅したが、寛永13年(1636年)宥伝上人によって当寺だけ新屋敷の現在地付近に移されて再興されたので、巡拝者は白坪の神社に札を納めた後、当寺で納経を行うこととなったが、その後の延宝7年(1679年)藩主の命により洪水を避けるために今度は神社が当寺の横に移転された。(中略)大正10年(1921年)には予讃線鉄道工事にともない、さらに南側の現在地に移転した。」と紹介されています。
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宝寿寺の次は、JR伊予小松駅の次の駅であるJR氷見駅近くの吉祥寺へ参拝いたしました。霊場会様のHPからの学びですが、ここ吉祥寺も先の宝寿寺も、豊臣秀吉の天正の四国攻めで焼失しています。私のお墓のある、小松町北川に所在の法安寺も、この四国攻めで焼失したと言われており、こうした戦火で、多くの寺院が失われたことを知ることができました。
一般社団法人四国八十八ヶ所霊場会のHPを一部引用させて頂くと、同寺は「四国霊場の中で、本尊を毘沙聞天とする札所は吉祥寺だけで、その縁起をたどる。弘法大師がこの地方を巡教したのは弘仁年間とされ、その折に大師は1本の光を放つ檜を見つけ、一帯に霊気が満ちているのを感得した。大師は、この霊木で本尊とする毘沙聞天像を彫造、さらに脇侍として吉祥天像と善膩師童子像を彫って安置し、貧苦からの救済を祈願して堂宇を建立したのが開創と伝えられている。」と紹介されています。
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さて、吉祥寺の次は、二日目の最後の訪問地である、横峰寺に向かいました。霊場会様のHPによれば、「境内は石鎚山の山系の北側中腹(750m)にある。四国霊場のうちでは3番目の高地にあり、「遍路ころがし」の最難所であった。」との説明の通り、難所中の難所であります。この札所が、私の生まれ育った西条市小松町にあることを誇りに思います。
一般社団法人四国八十八ヶ所霊場会のHPを一部引用させて頂くと、同寺は「西日本の最高峰・石鎚山(標高1982m)は、山岳信仰の霊地であり、修験道の道場でもある。弘法大師・空海が24歳の若いときの著書『三教指帰』の中で「或時は石峯に跨って粮を絶ち(断食)轗軻(苦行練行)たり」と、この山で修行した様子を記している。境内は石鎚山の山系の北側中腹(750m)にある。四国霊場のうちでは3番目の高地にあり、「遍路ころがし」の最難所であった。昭和59年に林道が完成して、現在は境内から500m離れた林道の駐車場まで車で行き参拝できる。」と紹介されています。
参拝を済ませて、二日目の宿である「湯之谷温泉」へチェックインいたしました。ここでは、源泉かけ流しのお湯につかり、疲れをとってから、地元の食材を中心に供されるお膳の数々を頂きました。
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