東京にいる義姉が、四国八十八か所巡りの旅をしたいと、11月2日、新幹線で岡山まで参りました。レンタカーを借受けて、岡山駅西口で待ち合わせをして、一路、四国を目指しました。前回は、徳島にある第一番札所「竺和山 一乗院 霊山寺」から第二番札所「日照山 無量寿院 極楽寺」、第三番札所「亀光山 釈迦院 金泉寺」、第四番札所「黒巌山 遍照院 大日寺」、第五番札所「無尽山 荘厳院 地蔵寺」と、五つの札所を参拝いたしました。
今回、初日は松山市内の札所巡りから始めました。
札所の順番に従って、まずは、第四十六番札所「医王山 養珠院 浄瑠璃寺」へ参りました。一般社団法人四国八十八ヶ所霊場会のホームページが、とても美しくコンパクトに札所を紹介されていますので、この情報をいつも大切な参考とさせて頂きながら、札所へお参りをさせて頂いています。
同社団のHPを一部引用させて頂くと、同寺は「浄瑠璃寺は松山市内八ヶ寺の打ち始めの霊場である。参道入口の石段左に「永き日や衛門三郎浄るり寺」と彫られた正岡子規の句碑があり、お遍路を迎えてくれる。このあたりは遍路の元祖といわれる右衛門三郎のふる里として知られる。縁起を辿ってみると、行基菩薩が奈良の大仏開眼に先だち、和銅元年に布教のためにこの地を訪れ、仏法を修行する適地として伽藍を建立した。白檀の木で薬師如来像を彫って本尊とし、脇侍に日光・月光菩薩と、眷属として十二神将を彫造して安置した。寺名は薬師如来がおられる瑠璃光浄土から「浄瑠璃寺」とし、山号もまた医王如来に因んだ。約百年後の大同2年(807)、唐から帰朝した弘法大師がこの寺にとどまり、荒廃していた伽藍を修復し、四国霊場の一寺とした。室町時代の末期に足利幕府の武将、平岡道倚が病に苦しみ、本尊に祈願したところ、ご利益で全快したのに感激し、寺塔を再興して厚く帰依した。江戸時代の正徳5年(1715)に山火事で本尊と脇侍をのぞいてほとんどの寺宝、伽藍を焼失したが、70年後の天明5年(1785)、地元の庄屋から住職になった僧・堯音が復興に尽力した。堯音は、托鉢をしながら全国を行脚してその浄財で現在の本堂その他の諸堂を再興している。また、社会事業家としても知られ、岩屋寺から松山市にいたる土佐街道に、苦難の末に8つの橋を架けている。境内の樹齢1,000年を超す大樹イブキビャクシン(市天然記念物)が信仰を得ている。」と紹介しています。
趣のあるお庭と、この大樹が、私たちをお迎えしてくれました。
大樹の辺りには、まさに樹の精霊が宿るという表現がぴったりの厳かな雰囲気が漂っています。
思わず手を合わせました。
そして、弘法大師の足跡にお乗りして、この度の札所巡りの安全成就と健康を祈念いたしました。
それからご本堂にお参りをさせて頂きました。
義姉が、御朱印を頂きまして、とても嬉しそうな笑みを浮かべてくれました。
浄瑠璃寺は、こじんまりとしていますが、とても素敵な札所のひとつであると思います。
熊野山 妙見院 八坂寺
次は、この浄瑠璃寺にほど近い八坂寺へ向かいました。
道すがらコスモスの花が綺麗でした。
霊場会様の紹介にもある通り、8か所の坂道を切り開いた所以から、栄える言葉として大切にされてきた「いやさか」がお寺の名前がついたと教えて頂き、それを探しながらのお参りとなりました。
その一般社団法人四国八十八ヶ所霊場会のHPを一部引用させて頂くと、同寺は「浄瑠璃寺から北へ約1キロと近い八坂寺との間は、田園のゆるやかな曲がり道をたどる遍路道「四国のみち」がある。遍路の元祖といわれる右衛門三郎の伝説との縁も深い。修験道の開祖・役行者小角が開基と伝えられるから、1,300年の歴史を有する古い寺である。寺は山の中腹にあり、飛鳥時代の大宝元年、文武天皇(在位697〜707)の勅願により伊予の国司、越智玉興公が堂塔を建立した。このとき、8ヶ所の坂道を切り開いて創建したことから寺名とし、また、ますます栄える「いやさか(八坂)」にも由来する。弘法大師がこの寺で修法したのは百余年後の弘仁6年(815)、荒廃した寺を再興して霊場と定めた。本尊の阿弥陀如来坐像は、浄土教の論理的な基礎を築いた恵心僧都源信(942〜1017)の作と伝えられる。その後、紀州から熊野権現の分霊や十二社権現を奉祀して修験道の根本道場となり、「熊野八坂寺」とも呼ばれるようになった。このころは境内に12坊、末寺が48ヶ寺と隆盛をきわめ、僧兵を抱えるほど栄えた。だが、天正年間の兵火で焼失したのが皮切りとなり、再興と火災が重なって末寺もほとんどなくなり、寺の規模は縮小の一途をたどった。現在、寺のある場所は、十二社権現と紀州の熊野大権現が祀られていた宮跡で、本堂、大師堂をはじめ権現堂、鐘楼などが建ちならび、静閑な里寺の雰囲気を漂わせている。本堂の地下室には、全国の信者から奉納された阿弥陀尊が約8,000祀られている。」と紹介されています。
修験道の寺院としても栄えたとの解説の通り、低いながらも背景の山々に抱かれた神聖な境内と、本堂地下室の阿弥陀尊の多さに息をのみ、目を見張りました。
清滝山 安養院 西林寺
門前には川が流れ、その川に架かる橋を渡ると、門前の向こうに広い境内が広がります。どの門前にも見事な仁王像が迎えてくれます。
また、鐘をつかせて頂くことができますので、白装束に袈裟と杖、そして念珠と納経帳を携えた義姉が、鐘を静かにつかせて頂き、深く手を合わせます。
本堂や薬師堂にお参りを済ませてから、納経にて、御朱印を頂きます。
喜寿が近くなり、ピアニストながら、若い頃から書や絵画をたしなむ義姉ですので、その御朱印への流れるような筆遣いの感動は、平素の感動を越えて、元気で四国まで来られたことと、お参りをさせて頂いた喜びが重なり、ひとしおの様子です。
一般社団法人四国八十八ヶ所霊場会のHPを一部引用させて頂くと、同寺は「寺の前に小川があり、きれいな水が流れている。門前にはまた正岡子規の句碑があり、「秋風や高井のていれぎ三津の鯛」と刻まれている。「ていれぎ」は刺し身のツマに使われる水草で、このあたりの清流に自生し、松山市の天然記念物とされている。縁起によると、聖武天皇(在位724〜49)の天平13年、行基菩薩が勅願により伊予に入り、国司、越智玉純公とともに一宮別当寺として堂宇を建立した。その地は現在の松山市小野播磨塚あたりの「徳威の里」とされ、本尊に十一面観音菩薩像を彫造して安置した。大同2年(807)弘法大師が四国の霊跡を巡礼した際この寺に逗留した。ここで大師は国司の越智実勝公と協議、寺をいまの地に移して四国霊場と定め、国家の安泰を祈願する道場とされた。このころ村は大旱魃で苦しんでおり、弘法大師は村人を救うために錫杖を突き、近くで清水の水脈を見つけた。寺の西南300mにある「杖の淵」はその遺跡とされ、水は涸れたことがなく土地を潤し、昭和60年の「全国の名水百選」にも選ばれている。時代は江戸・寛永年間(1624〜44)、火災で堂塔を焼失した。元禄13年(1700)に松平壱岐守はじめ、家老、奉行など諸役人の手により一部を再建、宝永4年(1707)には中興の祖、覚栄法印が村民の雨乞い祈願を成就して松山藩に帰依され、本堂と鐘楼堂の再興に尽力、さらに江戸末期に大師堂と仁王門を復興している。現大師堂は平成20年(2008年)に再建された。」と紹介されています。
こうして、松山市内、3か所目の札所を後に、道後温泉方面へとクルマを進めました。
西林山 三蔵院 浄土寺
お遍路さんの白装束の背中には「南無大師遍照金剛」と書かれています。白装束は死出の旅姿ですが、昔はそれだけ決死の覚悟で八十八ヶ所を巡拝したようです。
たしかに、クルマとナビゲーションシステムを使えば、一日に何か所も参拝出来ます。私たちも、朝一で東京を発った義姉と岡山駅で待ち合わせ、そして瀬戸大橋を越えて高速道路で午後には松山市内の札所に参拝できる時代になったことを喜ばしくは思いますが、一方で、一寺、一寺を歩いて廻ったお遍路さんの覚悟を想像すれば、「決死の覚悟」という表現は正鵠を射ていると心より感じ入る次第です。
さて、ここ浄土寺は境内が広く、また、霊場会様の解説を拝見すると、空也上人にゆかりが深いことを学ばせて頂きました。
歴史の教科書で、空也上人が踊念仏として唱える「南無阿弥陀仏」の6文字は、仏教に無学な者にとっても、深く心に刻まれています。
このように、八十八ヶ所には大師堂があり、弘法大師、空海が祀られていますが、長い歴史の中で、数々の僧侶や貴族、武士などが関わりながら、時には再建されながら、その姿をいまの私たちに残してくれています。このことは、誠に大切なことであり、私たちも次の世代につないでいく責任があると思います。
一般社団法人四国八十八ヶ所霊場会のHPを一部引用させて頂くと、同寺は「境内入口に正岡子規の句碑「霜月の空也は骨に生きにける」が立つ。浄土寺は空也上人(903〜72)の姿がいまに残る寺である。腰のまがったやせた身に、鹿の皮をまとい、ツエをつき鉦をたたきながら行脚し、「南無阿弥陀仏」を唱えるひと言ひと言が小さな仏となって口からでる姿が浮かぶ。道路を補修し、橋を架け、井戸を掘っては民衆を救い、また広野に棄てられた死体を火葬にし、阿弥陀仏を唱えて供養した遊行僧、念仏聖である。この空也上人像を本堂の厨子に安置する浄土寺は、縁起によると天平勝宝年間に女帝・孝謙天皇(在位749〜58)の勅願寺として、恵明上人により行基菩薩(668〜749)が彫造した釈迦如来像を本尊として祀り、開創された。法相宗の寺院だったという。のち弘法大師がこの寺を訪ねて、荒廃していた伽藍を再興し、真言宗に改宗した。そのころから寺運は栄え、寺域は八丁四方におよび、66坊の末寺をもつほどであった。空也上人が四国を巡歴し、浄土寺に滞留したのは平安時代中期で、天徳年間(957〜61)の3年間、村人たちへの教化に努め、布教をして親しまれた。鎌倉時代の建久3年(1192)、源頼朝が一門の繁栄を祈願して堂塔を修復した。だが、応永23年(1416)の兵火で焼失、文明年間(1469〜87)に領主、河野道宣公によって再建された。本堂と内陣の厨子は当時の建造で、昭和36年に解体修理をされているが、和様と唐様が折衷した簡素で荘重な建物は、国の重要文化財に指定されている。」と紹介されています。
東山 瑠璃光院 繁多寺
さて、初日の最終の札所、繁多寺に参る頃には、夕焼けの空になっていました。
ここ繁多寺は、小高い山の中腹にあり、霊場会様のご紹介にもあるとおり、夕焼けに染まる松山市の中心市街地が一望出来ました。
また、池には鯉が優雅に泳いでおりました。
心静かに手を合わせたご本尊は、行基菩薩の手によるものと言われています。
こうしたひとときを楽しむ余裕が出来たのも、定年して自由な時間が持てるようになったお陰だと、日頃は恥ずかしながら信心の気持ちに欠けているのですが、改めて健康にシルバー世代の仲間入りができたことに感謝しています。こうした感謝の気持ちを込めて、お参りをさせて頂きました。
一般社団法人四国八十八ヶ所霊場会のHPを一部引用させて頂くと、同寺は「寺は松山城をはじめ、松山の市街、瀬戸内海まで一望できる高台にあり、のどかな風情の境内周辺は、美しい自然の宝庫として景観樹林保護地区に指定されている。縁起によると、天平勝宝年間に孝謙天皇(在位749〜58)の勅願により、行基菩薩が薬師如来像を彫造して安置し、建立したと伝えられ、天皇より祭具としての幡を賜った為にこれが寺名になったという説もある。弘仁年間(810~24)、弘法大師がこの地を巡錫し、寺に逗留された。その後、寺は衰微するが伊予の国司・源頼義や僧・堯蓮らの援助で再興、弘安2年(1279)には後宇多天皇(在位1274〜87)の勅命をうけ、この寺で聞月上人が蒙古軍の撃退を祈祷している。また、時宗の開祖・一遍上人(1239〜89)が青年期に、太宰府から伊予に帰郷した際、有縁の寺に参籠して修行した。上人は晩年の正応元年(1288)、亡父・如仏が所蔵していた『浄土三部経』をこの寺に奉納されている。また、天皇家の菩提寺である京都・泉涌寺とのゆかりも深く、応永2年(1395)には後小松天皇(在位1382〜1412)の勅命により泉涌寺26世・快翁和尚が、繁多寺の第7世住職となっている。こうした縁から寺には16弁のご紋章がついた瓦が残っている。さらに江戸時代には徳川家の帰依をうけ、四代将軍・家綱が念持仏としていた3体のうちの歓喜天を祀るなど、寺運は36坊と末寺100数余を有するほどの大寺として栄えた。」と紹介されています。
こうして初日のお参りを済ませて、石手寺の傍にある、お遍路の宿である民宿「みかん」にチェックインいたしました。
着替えてから、女将さんに、道後温泉まで送って頂きました。
新しく改装された道後温泉本館には、入湯待ちの長蛇の列です。
これは大変だということになり、先に夕食をとることにいたしました。
温泉街を抜けて、伊予鉄道が経営する路面電車の道後温泉駅まで参りまして、坊ちゃん列車を見学してから、瀬戸内料理の「味倉」にて、メインは地元の名物である「鯛」を使ったメニューからチョイスして、サイドオーダーとして、じゃこ天と太刀魚のフライを追加注文、楽しい夕餉といたしました。
それから本館への入湯を、明日の早朝にすることとして、新しくできた「飛鳥乃温泉」にて旅の疲れをとりました。湯質は、本館と変わりませんでした。
帰りは、再び、みかんの女将さんがお迎えに来てくれました。
女将さんは愛媛県庁に勤務されていたとのお話で、私の小学校から高校まで同じだった、県庁に勤務した友人のことを良くご存じでした。
道後温泉には、両親と共に、数え切れないほど参りましたが、地元民は宿泊することがありません。久しぶりの宿泊となり、ふるさとの香りに素敵な時間をすごすことができました。