この日は、水島にある昔ながらの洋食屋さん「こころ屋」さんで、エビフライカレーを頂きました。
時間をかけて煮込んだカレールーは、コクが深く評判通りでした。
お店の中は広く落ち着いた雰囲気で長居したくなるレイアウトです。
駐車場も数台停められる、ご自宅を改装した良きつくりでした。
さて、パーキングデー会場に到着して皆さんにご挨拶してから準備のお手伝いにかかりました。
そこで「空飛ぶクルマ」の紹介看板を会場入り口に設置しました。
ここでいきなりですが、ドローンの機能が飛躍的に向上する社会で、「空飛ぶクルマ」が実用化されても戦争だけには使って欲しくないものです。
と申しますのも、パーキングデーの会場にて、提供三菱自動車工業さんと記された、戦時下の水島を偲ぶ戦闘機「紫電改」のパネル写真に父の思い出が蘇ったためです。
父は、戦時中、本土決戦用の新型機として開発された紫電改の製造と整備に携わり、エンジニアとして長崎(旧海軍大村基地・現在の長崎空港)で終戦を迎えています。
父のエンジニアとしての略歴は、設計・製造工程は、横須賀海軍航空隊・相模野分遣隊において、整備兵・下士官から募集された整備訓練生を養成するため、厚木飛行場に相模野海軍航空隊が設置され、そこで徹夜で紫電改の構造や整備についての訓練を受けました。そして戦争が敗戦続きとなり本土への空襲が激しくなる頃になると、本土周辺空域の制空権を回復しようと、三四三航空隊が創設され、その剣部隊に所属、局地戦闘機紫電改(父は紫電Ⅱ型と言っていた)を装備する任務に就いています。
さらに終戦時、1945年8月9日、長崎大村基地で整備にあたっていた父は原子爆弾が投下されたなかで、直接ではないにしろ、長崎原爆に接し、被爆した民間人の救援活動にあたったと話してくれました。原子爆弾が投下された瞬間、翼の上で整備をしていた父は、その爆風で翼から落ちそうになったと当時を語っています。長崎市内から続々と被害を受けた民間人が、病院機能を持つ大村基地に運び込まれ、総動員で応急処置にあたったといいます。その折に、医療物資の欠如が続くなかで、海軍は軍人よりも民間人の治療を優先したようです。そして、いよいよ特攻命令を受け、出撃の支度を整えた時に玉音放送が流れました。あと3日終戦が遅ければ命は無かったということです。
最期まで、何があっても戦争だけは繰り返してはならないと言い残しました。