一方で、朝夕Newsでのコメントゆえ、放送時間(尺)の限界があり、放送を見て、お伝えしきれない点が多くて、少し辛い気持ちを感じましたが、こうしたマスコミの活動が、災害を「風化させない」「次の備えの知恵と勇気」となるため大切であると再認識いたしました。
いまは新型コロナ禍への感染症対策を織り込んだ復興計画の再構築や災害列島と揶揄されるわが国の新たな防災を考える段階であり、改めて、真備地区の復興、いよいよこれからが正念場であると感じました。
そして、この西日本豪雨災害が発生した7月6日の全国ニュースで「西日本豪雨から2年 戻りたくても“戻れない”被災者も」のタイトルで災害からの復興状況を伝えるニュースが放映されました。
こうした復興までの道のりを伝えるなかで、時を同じくして九州南部を襲った豪雨災害で再び多くの犠牲者の方が出ているニュースを見守るしかない無念さに唇をかみました。さらにこの度は、人が自然と共存する大変さに加え、新型コロナ禍という感染症との闘いも併せる苦行の復旧・復興の道を歩まねばなりません。朝からTVに釘付けとなり言葉を失いました。
この瞬間を記す記録として、7月6日、NHKニュースの全文を転載させて頂きます。
「NHKが西日本豪雨で被害が大きかった広島、岡山、愛媛、山口の4県の被災者3500人余りにアンケートを行ったところ、仮設住宅などで仮住まいを続ける人の4割近くが被災前の地域に戻って暮らしたいと考える一方、戻りたくないと考える人が3割近くにおよび、自宅の再建場所について希望が分かれていることがわかりました。
NHKはことし5月から6月にかけて広島、岡山、愛媛、山口の4県の被災者1万1000人余りを対象にアンケートを行い、32%にあたる3540人から回答を得ました。
このなかで、仮設住宅や行政が民間のアパートなどを借り上げた「みなし仮設」などで今も仮住まいを余儀なくされている450人に、豪雨前に住んでいた場所に戻って暮らしたいと思うか尋ねました。その結果、「思う」が38%にのぼった一方、「思わない」が26%、「どちらとも言えない」が21%と、自宅の再建場所について希望が分かれました。
また、「思わない」と回答した人に複数回答で理由を尋ねたところ、「同じような災害にあうのではないかと不安だから」が71%と最も多く、次いで「住まいを再建する資金がないから」が36%でした。
瀬尾加奈子さんは、アンケートで岡山県倉敷市真備町に「戻りたいと思う」と答えた1人です。西日本豪雨の当時、真備町にあるアパートの1階の部屋で家族で暮らしていた瀬尾さん。豪雨で部屋は天井まで水につかりましたが、事前に避難していたため無事でした。今は夫と2人の子どもの合わせて4人で、元の自宅から車で15分ほど離れた倉敷市内のみなし仮設住宅で暮らしています。
瀬尾さんが真備町に戻りたいと思うようになったのは、豪雨の前まで働いていた美容室をもう一度、オープンさせたいと考えたからです。実家の2階で母親が営んでいた美容室で20年近く美容師として働いていた瀬尾さん。美容室は豪雨で浸水しましたが、はさみや鏡などの道具は流されずにすみました。避難生活を送る中、多くの常連客から「ぜひ真備町で再開してほしい」と声をかけられたこともあり、今度は、自分の美容室を開くことを決断しました。
すでに店舗をかねた自宅の建設は始まっていて、ことし8月には完成し、9月には店をオープンできる予定です。また、子育て環境を重視したことも瀬尾さんが真備町に戻る決断をした大きな理由です。小学1年生の双子の子どもは2人とも発達障害があり、同年代の子以上に行動が激しく、少し目を離すと居場所がわからなくなることも多いと言います。夫婦共働きの瀬尾さんにとって欠かせない地域の人たちの支え。2人のことをよく知る人が周りにいる真備町に戻ることが、子どもたちのためにもなると考えました。
新築した自宅では水害への備えも考慮し、当初、子ども部屋がある2階には、外に出られる窓はつけないつもりでしたが、いざという時に逃げ出せるよう1つだけ用意しました。瀬尾さんは、「また同じような水害にあうのではないかという不安はもちろんあり、真備町に戻るかどうかは難しい選択でしたが、真備町で美容師を続けることと、子どもたちを育てやすい環境で暮らすことがベストだと判断しました」と話していました。
坂東令子さんは、アンケートで岡山県倉敷市真備町に「戻って暮らしたいと思わない」と回答しました。その理由については、「また同じような災害にあうのではないかと不安だから」です。
坂東さんは8年前、倉敷市真備町に一軒家を借りて家族で移り住みました。その家は、西日本豪雨で2階のひざ下の高さまで浸水して全壊。家族は取り残され、おととし7月7日の午後、ボートで救助されました。今はそこから車で20分ほど離れた倉敷市内のみなし仮設住宅で、夫と中学2年生の長男、律彦さんの3人で暮らしています。豪雨当時、小学6年生だった律彦さんはその直後、みずからの体験を書き残していました。
「平成30年7月7日、七夕なのに、目の前には天の川ではなく、茶色の川が流れていました」
「避難した病院の4階から見る真備町は一面海のようでした」
「あんなににぎやかだった町が廃虚みたいになっていたのでショックでした」
小学生の心に大きな爪痕を残した西日本豪雨。律彦さんはその後も雨への恐怖心が消えず、雨が降るたびにスマートフォンで雨雲の状況を確認するようになったといいます。
倉敷市真備町では豪雨で決壊した川の堤防の機能を強化するといった治水対策工事が進められていますが、それが終わっても水害のリスクがゼロになるわけではありません。豪雨後も雨を不安がる長男の様子を見ていると、戻って暮らすという選択はできないと言います。
坂東さんは「子どもは、私たち大人以上に恐怖を感じたと思うし、心の傷は完全に癒えることはないと思う。真備町に戻って暮らすとあの時のことを思い出すことが増えると思うと帰るという選択肢は私たちにはありません」と話していました。
岡山県倉敷市が設けている真備町の復興計画推進委員会の委員長で岡山大学地域総合研究センターの三村聡センター長は、「被災者は人生で最大と言える恐怖を感じたわけなので、それを癒やすのは簡単ではなく、時間がかかるのはやむをえない」としたうえで、「戻って住むことができるという安心感を持ってもらうには、堤防の機能強化などのハード面の対策と、情報提供の在り方の改善といった迅速な避難を実現するためのソフト面の対策を積み重ねていくことが重要だ」と話しています。」以上です。