この連休は田舎の愛媛へお墓参りに帰省しました。小職の菩提寺は、愛媛県西条市小松町北川にあります「高野山真言宗法安寺」です。このお寺は、東に西日本最高峰の石鎚山、北に瀬戸内を望む場所に位置する、薬師如来様をご本尊とする愛媛県最古のお寺です(県内の四国八十八ヶ所のどの札所よりも古い建立となります)。
同寺のホームページによれば「その起源は飛鳥時代にまでさかのぼり、全国46ヶ寺のひとつとして建立されました。建立者の詳細は不明ですが、周敷郡の豪族で天皇近侍の丹冶比(かじひ)氏と言われています。現在は当時の姿は拝めませんが、昭和19年に『国指定史跡 法安寺跡』に指定された遺構には、塔、金堂、講堂が直線上に並んだ典型的な四天王寺式の伽藍配置を見ることができます。そして、周辺からは多量に飛鳥時代から白鳳・天平時代の瓦類(百済式素弁蓮華文、法隆寺式複弁蓮華文の鐙瓦重孤文唐草文の宇瓦、複弁蓮華文など)が出土したことから、その建築が長期間続き、完成したのは白鳳時代と考えられています。
現在の本堂は昔の金堂跡に位置し、享保年間に立てられた薬師堂を明治期に改築し本堂としています。旧暦の8月7日には「薬師如来法要」や「護摩供養法要」が盛大に執り行われ、地元の人々には「お薬師さん」として親しまれております。」と解説されています。また、境内には古くから牡丹の木が数多く植えられており「千本牡丹のお寺 法安寺」として地元では有名な観光名所となっています。秀吉の四国征伐の際に戦火で焼失したと社会科の授業で教わった微かな記憶がありますが、その記憶は曖昧で定かではありません。
子供の頃には、毎日学校が終わるとみんなが集まり、境内で蝉取りや石蹴り、かくれんぼ、野球(ゴムのボール)をして遊んだ記憶があります。そして、いまは撤去されましたが、昔はブランコや鉄棒があり、特に鉄棒が人気でした。誰が決めたでもなく技に難易度がつけられました。簡単な順に紹介すると、足で鉄棒を挟み、蝙蝠のようにぶら下がったままで手を振り反動をつけて着地する「蝙蝠落とし」、背中から鉄棒にはい上がる「えびあがり」、鉄棒の上に座り、手を離して後ろ向きに身体を倒し、足を掛けて着地する「エジプト」これは何故エジプトと呼ばれていたか不明、そして「けあがり」、ウルトラCが「小車輪」となります。小職は運動神経が鈍く、2番目の「えびあがり」までしか出来ませんでした。
また、夏休みのラジオ体操の会場でもありました。6年生の時に係りとなり、そのために親にラジオを買って貰い、嬉しくて毎晩深夜放送を聞いて朝寝坊して叱られた記憶があります。現代のインターネットと感覚的には一緒でしょうか。
春祭りや秋祭りにはテキヤの屋台が数多く並び、おでんや綿飴を買って貰いました。とりわけ春には境内一杯に牡丹の花が咲き誇りますので大勢の人で賑わいます。同寺のホームページによれば、「牡丹は原産地を中国とするボタン科ボタン属の落葉低木で、その優美な姿から別名「花王」と呼ばれ古より高貴な花とされて称えられてきました。日本に渡来したのは奈良時代の頃で、薬用として栽培されたのが始まりとなっています。
当法安寺境内に咲く牡丹は、数ある品種の中でも珍しい「京美人」と言われる牡丹の原種です。その起源は不明ですが、当寺が飛鳥時代に建立されていたことを考えれば、その古さをうかがい知ることができます。一般的に牡丹の花びらは、一重、八重、千重と称され、当法安寺の「京美人」は『千重』で108枚の花びらを持っております。その花蓋は大きいもので30cm近くあり、4月初旬から桃色を中心に、紅、白、黄、紫、斑の大輪の美しい花が咲き始めます。全国に数あるぼたん園の中でも「京美人」が群生しているところは珍しく、『法安寺の千本牡丹』と呼ばれるほどになりました。そして最盛期には、咲き誇る1,000株余りの「京美人」に牡丹愛好家やカメラマン、マスコミ関係の方々が詰めかけ、日本一と称えられています。」と解説されています。
見頃を少し過ぎていましたが、遅咲きの牡丹が五月の風に揺れていました。祖父母が眠る墓石と先祖代々の霊がまつられた五輪塔を水洗いしてから花を供え、お線香と蝋燭をあげて家内安全を祈りました。
愛媛県最古の寺「法安寺」の牡丹
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