トヨタ自動車の国土交通省ご担当部長さんにお誘い頂き、小職もメンバーである同社モビリティ研究会事務局ご担当の方と三名で、東日本大震災の被災地調査に参りました。
4月15日の早朝、東京、新宿区四ツ谷三丁目にある四ツ谷消防署前に集合いたし、トヨタ自動車お手配のプリウスにて首都高経由で東北自動車道に乗り、一路、宮城県仙台市を目指しました。途中のサービスエリアには全国からパトカーが集結していました。普段は目にする事が無い風景でした。栃木県を抜け、福島県に入りますと、一般のマイカーの姿が、めっきり減り、トラックやタンクローリ、荷物を積んだワゴン車、そしてパトカーや自衛隊の特殊車両、自治体の支援車両ばかりが目につくようになりました。
路面の凸凹や補修作業区間も出てきました。ただし、速度規制もありますが通常の運転に支障をきたす箇所はありませんでした。実感としては、ほとんどの橋の継ぎ目箇所に凹凸があり、震災の影響により河川周辺で地盤沈下が発生した可能性を皆で考えました。
想定したより早く、お昼頃に仙台市内へ到着しました。最初の訪問先である東北地方整備局の場所を確認してから三越裏のビルの駐車場にクルマを止めて、商店街を見て歩きました。繁華街は平時と変わらぬ様子で、地震の影響をほとんど感じませんでした。軽い昼食を済ませ、東北地方整備局に徳山日出男局長をおたずねしました。大臣視察を控えお忙しいなかを、局長自ら災害対策本部の執務室へ案内して頂きました。
正面に数多くのモニターが並び、主要国道を中心に各ポイントに設置されたカメラの映像が常時送られ、また、関係する東北地方のテレビ局の画面からも最新情報を伝える体制が敷かれていました。広い室内は、入り口の自衛隊デスクをはじめとして、それぞれの担当毎にデスクが整然と並び、職員の皆さま方は、県や自治体を超えて、被災地や支援団体などとの広域総合的な連絡調整・指示に慌ただしくあたっておられました。所管官庁や業務分担を超えて総合的にマネジメントを行うと言う点で、一昨年EUの交通環境調査で訪れたドイツ、シュトゥツガルト市のモビリティマネジメントセンターを思い出しました。
そのあと局長室にて、徳山局長から最新資料に基づき、次のようなお話をお聞かせいただきました。3月11日14時46分の災害発生時(マグニチュード9)から、青森県から福島県にかけて「大津波警報」が発令されました。15時23分、仙台空港が津波に教われる前にいち早く防災ヘリ「みちのく号」を飛ばし、被災や津波の状況を空から知らせました。この初動に遅れがあれば、大津波の実態を伝えることが大幅に遅れたことになります。
さらに、通常の震災では、【1】発災、【2】応急復旧・緊急復旧、【3】本復旧、という手順で対応にあたるものを、今回の大震災では対応が不十分との判断から、【1】発災、【2】『啓開』(応急復旧の前に救援ルートを確保する=破壊された道路を全力で切り開き被災地へのルートを開く)、【3】応急復旧・緊急復旧、【4】本復旧、【5】復興(事後対策の実施)、という5段階の異例措置を決定されたというご説明を頂きました。
この【2】『啓開』と呼ばれる指令は、関東大震災以来、戦後一度も発動されていなかった非常事態対応体制の発動であるそうです。この発令により、国土交通省主導、県と自衛隊との全面連携、そしてゼネコンなど民間協力による不眠不休の作業により、翌日の3月12日には東西ルート16本のうち11ルートが『啓開』、3月15日までに15ルートが『啓開』、そして1週間後の3月18日には通称「くしの歯作戦」と徳山局長自らが命名した作戦は終了となりました。
加えて、河川では、多くの堤防が陥没、仙台空港など海岸周辺の広いエリアで浸水、それに対して被災者救出・物資輸送等の支援のため、道路兼用の堤防復旧に注力し、仙台空港の再生に向けて、排水ポンプ車を集中投入したそうです。
港に関しては、内陸からのアクセスに支障のある3港、宮古港、釜石港、仙台釜石港を優先して航路『啓開』にあたられたとのご説明でした。その要諦は、防災ヘリ4機体制による太平洋沿岸部の情報収集、道路の啓開と協力業者や機材の確保、港湾利用可能性確認による救援・輸送ルートの確保、前例にとらわれない支援・救援物資の調達による県と自治体への応援体制の確立に集約されます。
また、道路の『啓開』が早かった理由として、阪神淡路大震災の経験が活かされ、東北管内の490の橋に耐震補強対策がとられ、落橋などの致命的な被害を最小限に留めることができた点、震災直後に内陸から被災地への『啓開』ルートを「くしの歯」になぞらえ、16ルートを明確にして集中して点検調査を実施、道路『啓開』を最優先して実施したこと、沿岸部の国道45号等の道路「『啓開』」については、建設業界と事前に災害協定を締結しており、震災直後から、地元建設業界の協力が得られたこと(地元建設業界や内陸部の建設業、全52チーム)などが挙げられます。
なお、徳山局長は「地元建設業者の方のなかには、職員の方やそのご家族で行方不明の方々がいらっしゃるにも関わらず、この『啓開』作業に優先して人員を派遣して頂いた社長さんがおられます。こうした皆様方のお陰で道の復旧が迅速にできました。心から感謝いたしておるところです」と述懐されました。こうした迅速な『啓開』作業により、【3】応急復旧・緊急復旧段階では、道路は4月10日には応急復旧が終了し、国道45号、6号(原発規制区域以外)は全個所の通行が確保されました。また、仙台空港では、総排水量500万m2・25mプール14,000杯分の水が排水されたそうです。さらに、大規模に被災した河川堤防23か所のうち、緊急復旧がなされ8か所が完了、また救援活動等のための道路兼用堤防5か所は3月31日までに全ての交通機能を確保したそうです。港湾についても3月23日までに、太平洋側10か所全てで、一部の係留施設が復旧し、緊急支援物資の受け入れが可能となりました。
また、「TEC−FORCE」と呼ばれる国と交通省の全国の地方整備局から震災対応経験を有するメンバー63班・255人(3月16日ピーク時)が各県や自治体の活動を支援すべく動員され、Ku−SATと呼ばれる衛星通信路等の活用による被災状況の調査や災害対策用機械の作業支援を展開されたそうです。
さらに驚いたのは、道路の復旧に併せて国土交通省の課長級を被災した自治体に全て派遣して、首長の側に配置し、逐一、最新情報と必要な救援物資を首長にリクエストしてもらい(食糧品、衛生用品、仮設の市庁舎から亡くなられた方のお柩まで)、自らを終戦直後の『闇やのオヤジ』と名乗り、全国の関係団体・企業に依頼して災害発生から3月一杯まで物資を集め送り続けたそうです。「大変なご活躍振りに言葉もありません」と申し上げると、「本来なら自治体対応は県の仕事ですが、阪神淡路の規模をはるかに超えて複数県に災害がまたがるため、一刻を争う事態と判断して、総指揮をとらせてもらいました。今後、かかった費用の財務省とのやり取りが残っていますけど」と笑顔で応えてくれました。こうした活動により、多くの人命が救われることとなりました。
徳山局長の局長室のソファには、毛布と寝袋が敷いてあり、災害発生から一度も自宅に帰られてないそうです。実質的な最前線陣頭指揮官を任され、迅速かつ冷静に英断を連続して発動し続け、この未曾有の大災害に勇敢に立ち向かわれたというドキュメントを拝聴するうちに目頭が熱くなりました。福島原発対応のまずさに対する官邸のドタバタばかりが報道されるなかで、まさに日本国を裏で支える官僚の優秀さを改めて目の当たりにさせて頂きました(この内容は『文藝春秋5月号』「無名戦士たちの記録」麻生幾著PP134 〜148に紹介されています)。
「非常事態宣言」が解除されていない超ご多忙のなかを貴重なお時間を割いて頂いた徳山局長にお礼を申し上げて、東北地方整備局災害対策本部を後にして仙台港へと向かいました。