終戦の年、戦火が激しくなるなか、熱海にいた谷崎は、旧津山松平家と知己であった関係で、1945年5月15日、岡山県津山市へ家族5人で疎開しています。
落ち着いた先は、津山松平家別邸の宕々庵(とうとうあん)でありました。ここにしばらく逗留して、7月7日、友人の新聞記者の勧めにより、さらに安全な地として勝山町へ転居しています。勝山町は、源流を蒜山高原に持つ旭川の上流に位置します。かつては高瀬舟の往来で賑わった、清流に抱かれた土蔵の白壁が美しい出雲街道の宿場町(城下町)です。谷崎は1946年3月まで滞在して『細雪』を執筆しています。
また、江戸っ子の荷風は、東京の居宅を再三空襲で焼かれ、友人宅に身を寄せていましたが、ついに友人と共に、1945年6月3日、兵庫県明石市へ疎開しました。ところが阪神地区への空襲が始まり、6月11日、岡山市弓之町の旅館へ移ったのです。そして、ここ岡山市で、6月29日、岡山大空襲に遭遇することとなります。
「旭川の堤を走って鉄橋に近い河原の砂の上に伏して九死に一生を得た」と述懐しています。宿泊先の旅館が消失し、三門町の人家の二階で自炊をしたようです。そこへ谷崎から手紙が着き、その後も、鋏・小刀・印肉・半紙1000枚、浴衣・角帯などを送ってもらっています。そして、8月10日、広島への原爆投下による広島消失を聞きながら、勝山の谷崎を訪ねようとしました。ところが大混雑の岡山駅で切符が買えず、長蛇の列に並び、13日によやく切符を手に入れています。そして伯備線で新見まで行き、津山姫路行きに乗り換えて、混乱の中を勝山に到着、谷崎に再会したのです。
谷崎は荷風のために、住処を用意して、物資が無い中で、精一杯の持て成しをした記録が残っています。荷風は、勝山に留まることを考えましたが、谷崎夫婦の心尽くしに恐縮し、2泊3日で勝山を後にして、8月15日午後2時に岡山駅へ到着、終戦を迎えています。
(「山陽新聞サンブックス」より引用抜粋・写真は真庭市勝山)