瀬戸内市にてワークショップ

3月16日、17日は瀬戸内市のまちづくりワークショップです。

朝、岡山大学に集合し、2台のクルマに分乗して出発です。まず、耕作放棄地で収穫した作物を販売して頂いている西大寺五福通りへ参りました。ここ西大寺は裸祭りで有名です。

西大寺

西大寺
それから活動の拠点である、瀬戸内市立裳掛小学校へ参りました。ここで環境理工学部の学生が「寺子屋」活動として学校ボランティア活動を実施しています。来年度は、旧中学校の体育館跡地を利用して、大学生のサポートにより小学生向けにじゃがいもやさつまいもの耕作を企画しています。現地を視察して、さらに小学校の周辺も散策しました。

裳掛小学校

裳掛小学校を後にして、国立療養所「長島愛生園」へ向かいました。以前にも紹介しましたが、改めて長島愛生園についてHPから藤田邦雄園長の言葉を引用させていただくと「長島愛生園では現在300人近い入所者が療養生活をおくっています。この方たちの病気の治療を行い、生活のお世話をすることが愛生園の役目です。ハンセン病そのものは完全に治っていて菌のある人はいませんが、後遺症のために目が見えなかったり、手・足の動きや感覚が鈍くなるなど何かの障害のある人がほとんどです。さらに高齢(平均年齢82.8歳)のため病気や体の不自由さが増しています。故郷や家族のもとに帰ることができないのは、体の障害のためだけではありません。

1930年に長島愛生園はハンセン病の患者さんを集めて治療する目的でできました。国が作った療養所は13ありますがその第1号でした。当時はよい治療法がありませんでしたが、1948年頃からよく効く薬があらわれ次第に治る人が多くなってきました。若くて障害の少ない人は退所しましたが、世の中のハンセン病に対する偏見・差別はあい変らずきびしく、ハンセン病であったことを隠して社会の中で生活しなければなりませんでした。外見で障害がわかるような人は、家族にまでも偏見・差別の被害がおよぶことを恐れて退所できませんでした。国もこの状況をなおすことができないままに40年あまりが過ぎ、1996年にようやく入所者が自由に社会に出ることができるようになりました。しかしそのときには平均年齢は70歳をこえていたのです。年齢や今もある偏見・差別のためにほとんどの入所者の皆さんは、ここで生涯を過ごすことになります。
このような不幸なことが今後起こらないようにすることが大切で、人権啓発活動に力を入れています。2003年8月長島愛生園歴史館を開館し、愛生園にのこる多くの資料を展示しハンセン病とそれを取り巻く問題についてわかりやすく説明しています。ぜひ一度おいでください。」と記されています。

長島愛生園

学生たちは、長島愛生園歴史館(旧事務本館)にて、ハンセン病と愛生園の歴史や活動についてビデオで学びました。

さて、愛生園を後に、池田氏のもと岡山藩時代の家老として裳掛地区を治めた伊木氏の墓所群を見学、そして岡山いこいの村へ移り、午後から裳掛(虫明)地区の皆さんと、耕作放棄地の有効利用と子供の見守り《学校ボランティア》について意見交換をいたしました。既に、学生たちが先行して裳掛地区の耕作放棄地を復活させる取り組みに参加しています。

ワークショップ

ここで二年目に入るに際して、地域の皆さんの声をお聞きして活動に反映したいと考えました。新たな学生を加えての頑張りに期待しています。ワークショップを経て、グループごとに学生と地域の皆さんが、討論結果を発表しました。この日、2014年3月16日は、瀬戸内海国立公園指定80周年記念日です。窓からは瀬戸内海国立公園が一望できるという恵まれた景観は最高です。

ワークショップ

地域の皆さんにお礼を申し上げて、入浴・食事を済ました後も、学生たちは遅くまで議論を続けました。既に活動を展開している学生がはじめて裳掛を訪れた学生たちに活動の様子を説明して、4月以降の活動方針を決めたようです。

小職は、服部靖会長(下の写真左側)にお誘いいただき、市内のお好み焼き店で懇親と情報交換をさせていただきました。人口減少、市民の高齢化、後継者不足、子育てで地元に帰る教育、若者の定住化などの課題と解決策について意見交換をさせていただきました。

服部会長(左)と

耕作地

翌日は、耕作している畑を見学してから岡山大学牛窓臨海実験所へ回り、その後で竹久夢二生家、瀬戸内市美術館、寒風陶芸会館、牛窓オリーブ園の関係者の皆様にお集まりいただき、観光と地域づくりについて学生たちと意見交換をさせていただきました。

観光スポットの連携強化の必要性について話し合いました。

そのあと、メガソーラー発電プロジェクトが検討されている錦海塩田跡地を視察してから帰路につきました。
収穫の多い二日間でした。