長岡見物

岡山シーガルズの試合がストレート勝ちでしたので、予定よりも早く終わりましたので、近くの河井継之助記念館を訪問しました。継之助は、江戸末期の長岡藩の武士であり、江戸に出て佐久間象山に学び、備中松山を訪ねて山田方谷に師事しています。そこで岡山県の同じ幕末の偉人である山田方谷との関係が深いため、記念館には方谷にまつわる記録が展示されていました。

その後、継之助は長崎を見学して西洋の事情を知り、攘夷論に反対するなかで、長岡藩の上席家老となり、藩政改革を断行したと伝えられています。そして戊辰戦争では、当初、中立を唱えたが受け入れられず、遂に抗戦を決意して軍事総督となり一旦は敵の手に落ちた長岡城を奇襲で奪還したことが有名な逸話として残っています。ただ、大きな時代が変革するときの一人の武士の生き方には、賛否、諸説ありますが、近代日本の幕開けを長岡藩の歴史から学び直させて頂きました。
ともあれ、山田方谷との深い縁から方谷の教えと高梁市の紹介が、岡山から遠く離れた新潟の地で多数紹介されていたことを、素直にうれしく感じました。
会館内の展示コーナーは写真禁止でしたが、許可されたエリアとお庭の花を記念に撮らせて頂きました。

さらに、時間がありましたので、河合継之助記念館から徒歩10分もかからぬところに山本五十六記念館がありました。父が海軍軍人であったこともあり拝観いたしました。
明治17年(1884)に長岡藩士高野家に生まれた五十六は、長岡中学を卒業し海軍兵学校に入学、聡明、優秀のため、旧長岡藩家老・山本帯刀家を継いで山本姓になったことを初めて知りました。長岡らしい文武両道、質実剛健、常在戦場の精神を受け継ぐも、昭和9年(1934)ロンドン軍縮会議予備交渉では、海軍代表で出席して海軍軍縮条約の締結に向けて交渉、さらに海軍次官に就任した後は、日独伊三国軍事同盟に断固反対の姿勢を貫いた話は有名です。
昭和14年(1939)連合艦隊司令長官に就任、開戦にはあくまで反対の立場であったと言われていますが、昭和16年(1941)ハワイ真珠湾攻撃の指揮をとり、最期は昭和18年(1943)ブーゲンビル島上空で米軍機に撃墜されて戦死、死後、元帥府に列せられています。記念館では、彼が国際派であり、数々の国際会議や交渉の経験を持たれていることに驚きました。そして、記念館の近くにある戦後に再生された五十六の生家がある公園を訪ねました。桜の花びらが庭を埋めていました。生家は、普通の木造二階建ての家であり、屋敷内には五十六の写真が多く陳列してありました。また、彼が勉強した2階の2畳の部屋には、小机が窓辺に置かれていました。彼の幼少期の暮らしぶりを偲ぶことができました。

さて、お腹がすきましたので、長岡のカレーの有名店である坂の上「レストランナカタ」に参り、ビーフカレーのご飯とルー大盛へ、さらに野菜のフライをトッピングして、辛さは5倍をお願いして、一気に頂きました。本当に満足のゆく大人の味でした。
お土産は、これまた創業明治35年、長岡の老舗和菓子屋「江口だんご」さんで、名物の笹団子を求めに参りましたが、残念ながら「本日分完売」でした。また、もう一つの米所新潟の名物「赤飯」は予約制とあって、最後の名物「五色くし団子」を二折り買い求めました。これは上品で、とても美味でした。
いずれにせよ、ここ長岡の地は、近代日本の転換期に、筋金入りの偉人を輩出していることから歴史の学び直しをさせて頂きました。