大原孫三郎・總一郎研究会

11月28日、第4回大原孫三郎・總一郎研究会が、有隣会の主催により、倉敷市公民館大ホールにて13時から開催されました。早いもので岡山大学へ着任して5年目を迎え、本日は自ら報告を希望し、自らの足跡をエッセイとして報告させて頂きました。テーマは大原孫三郎翁が設立した日本初の社会問題研究機関である大原社会問題研究所についてです(現在の法政大学大原社会問題研究所)。報告させて頂いた要諦をご紹介します。

大原孫三郎・總一郎研究会

岡山には日本初の歴史を持つものが多数ありますが、大原美術館が日本初の民間西洋美術館であることは良く知られています。その他にも、大原孫三郎翁が深く関わっています。例えば、日本初の孤児院に「岡山孤児院」があります。これは石井十次の設立によります。彼の熱意と内外のクリスチャンを中心とする多くの人びとの援助などで、明治末の東北飢饉の際には、1200人の孤児を収容する日本最大の孤児院であったと記録にあります。大原美術館の基礎となる絵を収集した児島虎次郎の夫人は石井十次の長女であり、「岡山孤児院」を経営援助したのが薬種問屋である林源十郎(山川均の義兄(姉・浦の夫))です。また、大原孫三郎の父、大原孝四郎は、この林源十郎に大原孫三郎の指南役を依頼しています。さらに、大原孫三郎と山川均は高等小学校時代の同級生です。この活動は岡山の地にとどまらず、大阪のスラムの児童を対象にした夜学校や保育所である財団法人石井記念愛染園が設立され、そこには、創立当初から救済事業研究室が付設(大原社会問題研究所の前身)されておりました。私が報告させて頂く大原社会問題研究所は、「愛染園」で創立総会を開催しています(石井十次も「大原社会問題研究所を創った人びと」のひとりといえます)。

さて、社会問題研究所創立は、大原孫三郎が河上肇から影響(『貧乏物語』の影響)を受けたことがきっかけであると言われます。その論拠は、河上肇の著『貧乏物語』(1917年)の書き出しが「驚くべきは現時の文明国における多数人の貧乏である」、であり、1919年に社会問題研究所が刊行した『社会問題研究』創刊の辞「社会問題とは簡単に言はば、社会の大多数の人が貧乏して居る、其を如何にして救治するを得るかと云ふこと、それが今日の謂ふ所の社会問題である」に見ることができます。実際に大原孫三郎は河上に会い、その意見を聞き、彼に研究員就任を懇請しています。河上は適任者として高野岩三郎を紹介しています。高野岩三郎は、研究所の所長を務めた後、戦後初のNHK会長として、戦後日本の民主的マスコミの礎を築いた人です。この高野岩三郎所長の女婿が宇野弘蔵(高梁市出身)です。

大原孫三郎・總一郎研究会

私事ながら、私の大学時代の恩師の恩師が、長く大原社会問題研究所の所長を務めた久留間鮫造です。先生は、1893年(明治26年)岡山市生まれ。第六高等学校(現在の岡山大学)を経て、1918年、東京帝國大学法科大学政治学科卒業。1919年(大正8年)大原社会問題研究所入所。1946年(昭和21年)法政大学教授となり、1949年(昭和24年)に法政大学に移管された大原社会問題研究所の所長を兼任(1966年まで)した方です。先生が研究所に入ったきっかけは、中学時代の友人林桂二郎(父・林源十郎)から研究所の創設計画を聞き、大原孫三郎に紹介され、さらに高野岩三郎所長にあい入所を許されています(林桂二郎は研究所監事に就任)。1945年の終戦を機に、大原社会問題研究所を支えてきた大内兵衛は東大経済学部に復帰、1946年、高野岩三郎は日本放送協会(NHK)会長、森戸辰男は日本社会党から衆議院議員を経て1947年片山内閣の文部大臣に就任するなどしたため、研究所の再建任務は創立以来の研究員である久留間鮫造の手に委ねられました。1947年3月,法政大学は学園民主化の動きの中で,野上豊一郎を総長・理事長に選任、学事顧問に高野岩三郎を委嘱、大学理事に大内兵衛が参加。野上家と高野家は姻戚であり、1946年10月久留間常務理事は法政大学経済学部教授に就任しています。こうして大原社会問題研究所は、1949年10月財団法人大原社会問題研究所最後の委員会を大内兵衞宅で開催、法政大学との合併を決議、12月8日文部省の認可を得て、創立以来ちょうど30年で、大原社会問題研究所は法政大学大原社会問題研究所として再出発し、現在を迎えています。

私の恩師である原薫先生は、法政大学との合併によって大原社会問題研究所の財政状態は安定、スタッフの充実がはかられたことを受け、1953年に助手として採用されています(1953年-68年:法政大学大原社会問題研究所研究員、1968年-95年:同大学経済学部教授)。私が、久留間先生や原先生から教えられたことは、「唯物史観では、人間社会は土台である経済の仕組みにより、それ以外の社会的側面(法律的・政治的上部構造及び社会的諸意識形態)が基本的に規定される。したがって経済学を学ぶ者は、まず土台の研究につとめ、その後に、土台=生産関係が生産力との間に生む矛盾を見定め、そのうえで、より良い社会実現のための根石となれ。」でありました。戦前に起こった日本資本主義論争では、共産党系の講座派は、明治維新後の日本を絶対主義国家と規定し、まず民主主義革命が必要であると論じ、これに対し、労農派は明治維新をブルジョア革命、維新後の日本を近代資本主義国家と規定し、社会主義革命を主張しています。こうした論争とは一線を画し、土台の研究に努めること、すなわち経済学者の責務はイデオロギーとは一線を画して研究にあたる、との教えです。

大原孫三郎・總一郎研究会

さて、現在、文部科学省は「人文学及び社会科学の振興について(報告)-「対話」と「実証」を通じた文明基盤形成への道-」(平成21年1月20日科学技術・学術審議会学術分科会)のなかで、「日本が受容した欧米の人文学及び社会科学とは、知の全体としての総合性や体系性を保とうとする「学問」というよりも、西洋社会において専門分化を遂げた「個別科学」であったのである。おそらく、このような歴史的な経緯が、その後の日本の「学問」の在り様を規定していると考えられる。このことは、「サイエンス」の訳語として、専門分化を前提とした「科の学」としての「科学」という日本語が当てられたということにも現れていると言ってよい。(中略)このように、西洋社会において専門分化を遂げた「個別科学」を受容・継受したことが、結果的に日本の人文学及び社会科学の展開の中で、人間、社会、歴史、文明といったものを俯瞰しつつ総合的にとらえる視点の確立を阻害する要因として作用した可能性を考えることができる。この問題は、一種の歴史的な宿命と言わざるをえないものであるが、日本の「学問」の在り方を考えるに当たり、踏まえておくことが必要な視点と考えられる。(中略)近代化の過程で、日本が欧米諸国の学問を、とりわけ専門分化を遂げた後の学問を受容したという歴史的な経緯を踏まえ、日本の人文学及び社会科学の研究水準に関する諸課題、研究の細分化に関する課題、そして学問と社会との関係に関する課題を提起している。これらの諸課題は「歴史的な宿命」としか言いようのないものかもしれないが、日本の人文学及び社会科学を振興するに当たっては踏まえておくべき視点である。(中略)人文学及び社会科学の成果は、何かの役に立つという道具的な性格を持つというよりも、「理解」の共有という対話的な性格を有している。したがって、このような性格から、人文学及び社会科学は、多様性を前提としつつ人々の間に共通の理解を促すという意味で、文明の形成に大きな貢献を果たしているのである。」と、社会文化科学に対する考え方を示しています。これは、現代の「総合大学」が抱える課題そのものを提起しているとみてとれます。すなわち、大原孫三郎翁の偉業を、研究者の視座から見つめると、こうした「科」に分化してしまった領域を、官に頼らず民の立場から、戦前・戦中の理不尽な社会環境にも屈せず、社会を俯瞰しつつ総合的にとらえる運動体を設立した点にあると思います。それが、大原美術館(芸術・文化)、大原社会問題研究所(社会)、倉敷教会(宗教・福祉)、倉敷中央病院(医療)、中国銀行(経済)、倉敷商業高校(教育)、岡山大学資源生物科学研究所(農業)、倉敷紡績・クラレ(産業)、中国電力(社会基盤)といった機関や施設として、いまなお光を放ち続けていると考えます。

大原孫三郎・總一郎研究会
 ▲ 原伸子法政大学大原社会問題研究所所長

研究会後、倉敷国際ホテルに会場を移して懇親会が開催されました。原伸子法政大学大原社会問題研究所所長、大原謙一郎大原美術館理事長、伊東香織倉敷市長など、大勢の識者の皆さんと懇親させて頂くことができました。研究会で司会と総括を担当された倉敷芸術科学大学の時任英人教授(ご専門は犬養毅と日本近代政治史、極東アジア国際関係)と記念撮影をさせて頂きました。温かいお言葉をかけて下さいました。今後ともご指導を仰いで参る所存です。

大原孫三郎・總一郎研究会
 ▲ 伊東香織倉敷市長

翌日には、大原孫三郎・總一郎研究会の記事が山陽新聞全県版に紹介されました。小職が紹介されたくだりでは、小職は社会科学を中心にお話したのですが、自然科学との記載になっております。ともあれ、毎度ながら山陽新聞には感謝です。

大原孫三郎・總一郎研究会
 ▲ 時任英人教授

こうして、大原孫三郎・總一郎研究会での報告をなんとか終えました。Socialistと勘違いされたかも知れませんが、大原家に対する敬意を拙いながら精一杯お伝えさせて頂きました。これまでの人生の総決算をさせて頂くことができました。

有隣会の皆様、大原家の皆様、関係者の方々に心より深く感謝申し上げます。

大原孫三郎・總一郎研究会
 ▲ 左は大原孫三郎翁、右が久留間鮫造先生