8月15日、父が他界して2年半が経とうとする終戦記念日です。父は、愛媛県立新居浜工業高校を卒業して海軍に志願しました。水泳や剣道を得意としていた父は、最初の配属先が、永野修身(ながのおさみ)軍令部総長(海軍大臣・連合艦隊司令長官などを経験、極東軍事裁判(東京裁判)でA級戦犯容疑として裁判中に巣鴨拘置所で病死)の従兵(抜擢されて士官の身の回りの世話をする兵)となり、戦闘機乗りとしての訓練を受けながら海南島まで行った経験があります。
真珠湾攻撃を皮切りに、当初、制空権を掌握していたゼロ戦も、アメリカ軍の技術進歩により、その性能に限界がみえたこともあり、エンジニアに転属され、紫電改という戦闘機の整備にあたりました。その図面をもとに尼崎で整備訓練をしていた折に爆撃を受け、部下を先に地下壕へ逃がしたことが逆にあだとなり、爆撃により防空壕が崩れ、20名以上の部下を亡くしたと聞きました。最後は、長崎(旧海軍大村基地・現在の長崎空港)で終戦を迎えています。直接ではないにしろ、長崎原爆に接し、被爆した民間人の救援活動にあたり、亡くなられた民間人を爆撃で開いた穴に埋めたと聞きました。出撃や特攻により次々とパイロットを失う中で、本土決戦に備え戦闘機を守る任務であった父は、飛行経験があるため、ついに特攻命令を受けました。あと3日終戦が遅ければ命は無かったようです。気丈な父でしたが、それでも時折酒が入ると、「戦争が人生を狂わした」、「二度と繰り返すな」と理不尽で忌まわしい過去の瞬間がフラッシュバックしていました。
また、今年米寿の母は愛媛県立西条高等女学校のおりに父を戦争で失いました。英語教員だった父親(小職の祖父)は通訳として招聘され、捕虜収容所担当として従軍、フィリピンの島々を移動中に、アメリカ潜水艦による魚雷攻撃によりミンダナオで戦死しました。母は、県女学校卒業後、直ぐに小学校の代用教員として働きながら終戦を迎えています。終戦後も一家を経済的に支えるために教員を続けました。
母の唯一の自慢は小学6年生のときに全国1位に選ばれた「書」です。「何のための教育であったか」、母は、戦争が全てを無意味にしてしまうと念じながら定年まで教員を勤め上げました。そして、最愛の父を失った悲しみをいまでも抱き続けています。もちろん、この戦争がなければ、私の父と母が結婚することも無かったでしょう。
わが国の人は、万人が戦争という愚行に人生を翻弄され、そして戦後70年を迎えました。
残された者の責務として、私たちは平和の持続と戦争という愚行の根絶を目指さねばならないのです。
先の戦争で命を失った全ての皆様に合掌・黙祷。